序章:AIとの小さな確執と、土曜夕刻の決断
旅の本当の始まりは、土曜日の夕刻、東京駅の新幹線ホームだった。
この週は、水曜日から金曜日までを西新宿のオフィスで過ごすという勤務スケジュールだった。金曜の夜にそのまま帰阪せず、土曜日は趣味の電子部品探しで都内を歩き回るなどして過ごしたが、それもあくまで日常の延長に過ぎない。
非日常への扉が開いたのは、日が傾きかけた東京駅でのことだ。通常であれば東海道新幹線で大阪への帰路につくところを、私はあえて北陸新幹線「かがやき」のりばへと足を向けた。富山で一泊し、日曜日の観光を経てから大阪へ戻る。これは、単なる移動ではなく、帰宅の途上に設けられた贅沢な「寄り道」である。
今回の旅の計画にあたり、私は生成AIであるGeminiに助けを求めていた。日曜日の富山はあいにくの雨予報。「なるべく屋外移動を減らし、徒歩を避けるプラン」への変更を依頼したのだが、提示された答えは期待外れだった。AIは晴天用の元プランに固執し、移動手段を徒歩からタクシーに変えただけの芸のない提案をしてきたのだ。AIの融通の利かなさに苦笑しつつ、結局は自分の足と直感を信じることにした。
定刻通りに入線してきた「かがやき511号」。全席指定のこの列車は、大宮を出ると長野まで止まらない。滑るように闇を切り裂き、わずか2時間ほどで私を富山の地へと運んでくれた。
第一章:暖かな冬の夜と、回転しない回転寿司
富山駅に到着したのは午後6時半過ぎ。ホテルにチェックインするよりも先に、まずは腹ごしらえだ。駅ビル「きときと市場とやマルシェ」にある「廻る富山湾 すし玉」へ向かった。時間がまだ早かったおかげか、10分ほどの待ち時間で席に着くことができた。
「廻る」と看板にはあるが、職人が目の前で握ってくれるスタイルだ。富山湾の握りを中心に15貫ほど注文する。中でも白えびの軍艦は格別だった。口に運ぶと、ねっとりとした濃厚な甘みが広がる。特有の海老の香りが鼻をくすぐるが、それは新鮮さの証であり、富山湾の生命力を感じさせる芳醇なものだ。その香りが、後からくる甘みをより一層引き立てていた。さすがは天然の生簀と呼ばれる富山湾だ。酒も頼まずひたすら鮨に向き合い、会計は5000円弱。金沢同様、富山の鮨は決して安くはないが、その味は価格に見合う確かなものだった。
ホテルにチェックインした後、腹ごなしに駅周辺を散歩した。12月だというのに奇妙なほど暖かく、薄い上着一枚で十分だった。県庁所在地の駅前らしく整備されているが、人通りはまばらで、落ち着いた静寂が心地よい。
今夜の宿は、駅前にあるホテルアルファーワン富山駅前。このホテルを選んだ理由は、14階にある展望大浴場だ。湯船に浸かりながら窓の外を見下ろすと、富山駅の駅舎と、そこに出入りする新幹線のホームがジオラマのように見えた。旅の疲れを湯に溶かしながら、翌日の雨予報が外れることを密かに祈った。
第二章:豪商の記憶と、蔵で飲むビール
翌朝、10時前にチェックアウトを済ませ、市内電車・バス1日ふりーきっぷを手に入れた。最初の目的地は、かつて北前船の交易で栄えた港町、岩瀬だ。
富山駅から「岩瀬浜」行きの路面電車、ポートラムに乗り込む。この路線は元々JR富山港線だったものをLRT化したもので、奥田中学校前までは路面をゆっくりと走るが、そこから先の専用軌道に入ると、路面電車とは思えないスピードで快走する。
終点の岩瀬浜に着くと、幸運にもまだ雨は落ちてきていなかった。岩瀬浜海水浴場まで足を延ばすと、鉛色の日本海の向こうに、真っ白に雪化粧した立山連峰が神々しい姿を見せていた。雨が降り出す前の、ほんの短い間の贈り物だった。
しかし、古い町並みを目指して歩き始め、岩瀬運河を渡る頃には、予報通り雨が降り出した。
雨宿りを兼ねて飛び込んだのが、「北前船主廻船問屋 旧馬場家住宅」だ。ここが、今回の旅で最も強く印象に残る場所となった。
入館料わずか100円を支払い中に入ると、まず目に飛び込んできたのは、建物を貫くように伸びる長大な土間廊下「トオリニワ(通り庭)」だ。全長約30メートルにも及ぶこの通路は、表通りの大町から裏手の船着場までを一直線に結んでいる。かつては、ここに荷物を積んだ大八車が行き交い、北前船が運んできた富がそのままこの家の中に流れ込んでいたのだ。
主屋に上がると、そのスケールに再び圧倒される。33畳もの広さを誇る広間「オイ」は、天井の梁も規格外の太さで、当時の馬場家の権勢を無言のうちに物語っている。単に広いだけでなく、意匠の端々に洗練された美意識が宿っており、北陸の厳しい冬に耐える堅牢さと、豪商の美学が見事に融合していた。五箇山の合掌造りとはまた違う、都市的な富の蓄積の形がここにはあった。
昼食は、この馬場家の広大な敷地内にある米蔵を改装した「KOBO Brew Pub」でとることにした。クラフトビールが評判の店だ。ビールのテイスティングセットAとソーセージセットを注文。
並べられた4つのグラスには、それぞれ個性的なビールが注がれている。馬場ヴァイツェン、ペールエール、ドラゴンエール。そして「スパイシーエール」。このスパイシーエールは、シナモンの香りと、オレンジのほどよい酸味と苦み、それにモルトが見事に調和したスパイシーなビールだ。少し癖があるが、ソーセージの脂を流すには丁度いい。歴史ある米蔵の太い柱に囲まれながら、異国のビールを味わう。その不思議な調和に、雨の憂鬱も晴れるようだった。
食後は雨に煙る富山港展望台に登り、再び馬場家の長い通り庭を抜けて表通りへ。東岩瀬駅へ向かうと、そこにはJR時代の古い駅舎が休憩所として残されていた。
第三章:ガラスの煌めきと、デザインの実験場
路面電車で富山駅へ戻り、乗り換えて「西町」へ。隈研吾氏の設計による複合施設「TOYAMAキラリ」内にある富山市ガラス美術館を目指した。
ここでは常設展に加え、企画展「めぐりあう今を映す。日本の現代ガラス 1975-2025」が開催されていた。観覧料は常設展だけなら200円。しかしこの企画展に興味あったため1200円の企画展の観覧券を購入した。
展示室に足を踏み入れると、そこには「ガラス」という素材の概念を覆すような作品群が並んでいた。単に絵を描いたり色を組み合わせたりするだけでなく、光を透過し、屈折させ、時にはその形状そのもので空間を歪める。ガラスという物質が持つ表現力の豊かさに、ただ圧倒された。
美術館を出て、すぐ近くにある「池田屋安兵衛商店」へ。江戸時代から続く薬種商の店舗だが、店の中央で古風な機械を使った丸薬作りの実演が行われていたのを横目で眺め、雰囲気を味わうだけに留めた。
そこから再び電車に乗り、「オークスカナルパークホテル富山前」電停で下車。雨の中を十数分歩き、富岩運河環水公園のほとりにある富山県美術館(TAD)へ辿り着いた。
お目当ては企画展「DESIGN with FOCUS デザイナーの冒険展」。ここで私の足を止めたのは、後藤映則氏の作品「Heading – in flux」だった。
暗い展示室の中、回転する白いメッシュ状のオブジェに一筋の光が当たっている。すると、その光の中に、歩行する人々の姿が浮かび上がっては消えていく。歩くという単純な動作の連続が、回転と光によって可視化され、まるで時間がそこに実体を持って流れているかのような錯覚を覚える。動きと光そのものをデザインしたこの作品は、美術館でしか味わえない身体的な体験だった。
終章:再びの輝きと共に
美術館を出る頃には、すっかり日も暮れていた。富山駅に戻り、夕食をとることにする。有名店「とやま鮨 海富山」を覗いてみたが、予約で満席とのことで断念。しかし、口はすっかり寿司の気分になっていたため、駅構内の「きときと寿し」へ入った。
注文したのは「富山御膳」、2970円。握り寿司に天ぷら、茶碗蒸しがついたセットだ。やはり富山の魚は裏切らない。新鮮なネタの旨みを噛み締めながら、短い滞在を振り返る。
帰りの列車も、昨日と同じ「かがやき511号」。昨日は東京から私を連れてきたこの列車が、今日は私を大阪方面へと連れて行く。AIの提案には頼らなかったが、雨の富山は、豪商の記憶やガラスの透明感、そして光の中に浮かぶ歩行者の姿と共に、私の記憶に鮮やかに刻まれた。
定刻通りに滑り込んできた新幹線のシートに身を沈め、私は静かにまぶたを閉じた。