表象の情報密度:ハイコンテクスト・コミュニケーションを通じた日本語と英語の比較分析


序論

本稿は、日本語の表現力が、そのハイコンテクストな言語システムとしての性質に深く根差していると論じるものである。このシステムは高度な「情報密度」を可能にし、個々の単語やフレーズが、話者の人格、社会的文脈、状況的ニュアンスといった複雑な情報を多層的に内包することを許容する。この現象は、英語のようなローコンテクスト言語とは一線を画す特徴であり、その機能は話者間に存在する共有された文化的同一性(同一性)という基盤に決定的に依存している。

本分析は四部構成で進められる。第一に、ハイコンテクスト・コミュニケーション、言語的相対性、そして文化的アイデンティティという本稿の理論的基盤を確立する。第二に、この情報密度を可能にする日本語の構造的・言語的メカニズム、特に人称代名詞システムと「役割語」の概念を考察する。第三に、「ボクっ娘」というキャラクター類型、およびテレビドラマ『刑事コロンボ』における「My wife」という象徴的な翻訳、これら二つの詳細なケーススタディを行う。最後に、これらの分析結果を統合し、言語と文化が不可分であるという事実が、翻訳を介して行われる国際的な文学評価の営みにどのような根源的な問いを投げかけるのかを論じる。

第1部 理論的基盤:コンテクスト、アイデンティティ、そして知覚

本稿の分析全体を支える概念的枠組みを構築するこの部では、観察される言語的差異が表層的なものではなく、より深い文化的・認知的枠組みの現れであることを論じる。

1.1 ハイコンテクスト/ローコンテクストのスペクトラム:コミュニケーションの枠組み

文化人類学者エドワード・T・ホールによって提唱されたハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化の概念は、コミュニケーションスタイルを分析するための強力な枠組みを提供する。ホールによれば、コミュニケーションは、メッセージがどれだけ文脈(コンテクスト)に依存するかによって、このスペクトラム上に位置づけられる。

ハイコンテクスト文化では、コミュニケーションは共有された価値観、感覚、非言語的な手がかりといった文脈に大きく依存する。メッセージの多くは言葉にされず、聞き手は「空気を読む」こと、つまり行間や状況から意味を推察することが期待される。コミュニケーションの責任は話し手と聞き手の双方で共有される。日本は、このハイコンテクスト文化の典型例として広く認識されている。

対照的に、ローコンテクスト文化では、メッセージは主に言語を通じて明確かつ直接的に伝えられる。曖昧さは避けられ、情報は額面通りに受け取られるべきとされる。コミュニケーションの成功に対する責任は、主に明確に伝えるべき話し手にある。アメリカ合衆国に代表されるアングロサクソン文化圏は、ローコンテクスト文化の主要な例とされる。

この文化的な差異を視覚的に整理するため、以下の表を提示する。

表1:コミュニケーションスタイルの比較分析

特徴ハイコンテクスト文化(例:日本)ローコンテクスト文化(例:米国)
メッセージの明確性暗示的、多層的、含みがある明示的、直接的、シンプル
コンテクストへの依存高い(非言語的要素、状況、共有知識を重視)低い(言語化された情報を重視)
コミュニケーションの目標関係性の維持、調和情報の正確な伝達
責任の所在話し手と聞き手で共有される主に話し手にある
沈黙の捉え方意味を持つコミュニケーションの一部コミュニケーションの欠如、気まずさ
内集団/外集団の区別強い(内集団ではよりハイコンテクストに)弱い(誰に対しても比較的均一なスタイル)

この二項対立の背景には、それぞれの文化が持つ歴史的・言語的要因が存在する。言語的には、日本語には同音異義語が多く、文脈なしには意味が確定しにくい単語(例:「あし」が「足」か「葦」か)が存在する。これは、話者と聞き手が常に文脈を共有していることを前提とする言語構造である。一方、英語は意味を細分化する傾向があり、例えば日本語の「見る」に相当する動詞が see, look, watch など複数存在し、文脈への依存度を低減させている。

歴史的には、日本が比較的単一民族で構成され、長い歴史を共有してきたことが、暗黙の了解や「以心伝心」を可能にする豊かな共有コンテクストを育んだ。対照的に、アメリカは多種多様な背景を持つ移民によって建国された歴史を持つため、文化的背景を共有しない人々との間で円滑なコミュニケーションを図るには、すべてを言葉で説明するローコンテクストなスタイルが不可欠であった。

この言語構造と文化的コンテクストの関係は、単なる一方向的な因果関係ではなく、相互に強化しあう共生的なものである。共有された歴史的背景は、言語的なショートカットや曖昧さが効率的に機能する土壌を提供する。そして、曖昧さや文脈依存性の高い言語を日常的に使用することは、「空気を読む」という文化的習慣を絶えず強化し、人々をハイコンテクストなコミュニケーターとして訓練する。言語と文化は、互いを形成しながら共に進化してきたのである。

1.2 世界観としての言語:言語的相対性の原理

言語が思考や知覚に与える影響を考察する上で、サピア=ウォーフの仮説は重要な示唆を与える。この仮説には、言語が思考を完全に決定するという「言語決定論」(強い仮説)と、言語が思考に影響を与えるという「言語的相対論」(弱い仮説)の二つの解釈が存在する。現代の言語学では、後者の弱い仮説がより広く受け入れられている。すなわち、我々が話す言語は、我々が世界をどのように認識し、どのような思考パターンを習慣的に用いるかに影響を与える、という考え方である。

例えば、ある言語が特定の色を区別する語彙を持っていれば、その話者はその色の違いをより迅速に認識する傾向があることが実験的に示されている。これは、言語が知覚のフィルターとして機能し、我々が注意を向けるべき世界の側面を方向付けていることを示唆する。言語は、話者に対して、特定の情報(例えば、フランス語やドイツ語における名詞の性)について常に考えることを習慣的に強いるのである。

この原理は、本稿の主題であるハイコンテクスト/ローコンテクストの差異と、後述する具体的な言語事例とを結びつける理論的な架橋となる。日本語の構造、例えば敬語や豊富な人称代名詞、文脈に依存する表現の多さは、話者に対して、社会的関係性、上下関係、場の雰囲気といったコンテクスト情報に常に注意を払うことを習慣づける。一方、英語の構造は、情報の明確性、直接性、客観的な事実内容を優先する思考様式を育む。これはどちらかが優れているという価値判断ではなく、それぞれの言語が、その文化圏で重要とされる異なる認知的・コミュニケーション的優先順位を反映し、またそれを強化しているという観察である。

1.3 共通理解の基盤:言語と文化的同一性(同一性)

ハイコンテクスト・コミュニケーションが機能するためには、その根底に、話者と聞き手の間で共有されている広範な知識、価値観、行動様式の体系が不可欠である。本稿では、この共有された文化的基盤を「文化的同一性」と呼ぶ。これは個人のアイデンティティというよりも、集団が共有する文化的な共通性を指す。

この概念を理論的に補強するのが、フランスの社会学者ピエール・ブルデューが提唱した「ハビトゥス(habitus)」の概念である。ハビトゥスとは、個人が社会化の過程で内面化する、知覚、思考、行動の様式を生み出す性向の体系を指す。それは無意識のレベルで作用し、人々は「規則に従っているという意識なしに規則的な振る舞い」をするようになる。

言語使用もまた、このハビトゥスの影響を強く受ける。我々は、自らが属する言語文化圏で歴史的に形成されてきた型や規則に無意識のうちに従って、言語表現を生み出している。後述する「役割語」や「ウチのかみさん」といった表現が持つ豊かなニュアンスの解読は、知的な分析作業というよりも、聞き手が話し手と同じ文化的ハビトゥスに参加していることによって可能になる、自動的かつ反射的な行為なのである。この共有された文化的同一性こそが、ハイコンテクストな表現システム全体を支える、目に見えない基層を形成している。この基盤がなければ、発せられた言語記号は意味を失い、その表現力は霧散してしまう。

第2部 キャラクターの構築術:「役割語」と人称代名詞システム

前部で概説した広範な理論から、本稿の主題である情報密度を、特にキャラクター造形の側面から達成するために日本語が用いる具体的な言語的ツールへと焦点を移す。

2.1 人称代名詞の比較分析

日本語と英語の表現戦略の違いは、人称代名詞のシステムに最も顕著に現れる。英語における一人称代名詞は、基本的に単数の “I” と複数の “we” に限定されており、話者の性別、年齢、社会的地位といった付加的な情報をほとんど伝達しない。これらの代名詞は、純粋に指示対象を特定するための機能的な語彙である。

これに対し、日本語は極めて豊富でニュアンスに富んだ一人称代名詞の体系を有する。話者は、自身の性別、年齢、社会的地位、性格、さらには聞き手との関係性や発話のフォーマルさに応じて、「私(わたし、わたくし)」「僕」「俺」「わし」「うち」といった多様な選択肢の中から、状況に最も適したものを選択する。この選択自体が、話者の自己呈示における重要なメッセージとなる。

この情報量の差異を明確にするため、以下の表を作成した。

表2:一人称代名詞の情報量

代名詞言語性別の含意フォーマル度社会的・人格的ニュアンス
I英語中立文脈依存なし
私 (わたし)日本語中立(やや女性的)フォーマル/丁寧標準的、公式な自己
僕 (ぼく)日本語男性的(主として)インフォーマル/丁寧若々しい、謙虚、知的
俺 (おれ)日本語強く男性的非常にインフォーマル自己主張が強い、粗野、自信
わし日本語男性的(主として)インフォーマル高齢、権威、尊大

この表が示すように、日本語の一人称代名詞は、単に「私」という存在を指し示すだけでなく、その「私」がどのような人物であるかという情報を圧縮して伝達する機能を持つ。英語でこの種の情報を伝えるには、「I, a young and humble man, think that…」のように、代名詞以外の語彙で補足説明する必要がある。日本語では、代名詞の選択そのものが、この補足説明の役割を担っているのである。

2.2 物語的ショートカットとしての「役割語」

日本語が持つキャラクター構築能力を理解する上で中心的な概念が、言語学者・金水敏によって提唱された「役割語(やくわりご)」である。役割語とは、話者の特定の人物像(年齢、性別、職業、階層、性格など)を、聞き手の心の中に即座に想起させる、特定の言葉遣いのことである。これには、一人称代名詞の選択だけでなく、文末表現(例:「〜じゃ」「〜ですわ」)、語彙、イントネーションなどが含まれる。

役割語は、現実の特定の社会集団が実際に用いる言葉遣いを忠実に反映しているとは限らない。むしろ、フィクション(小説、漫画、アニメ、演劇など)の世界で繰り返し用いられるうちに、特定のキャラクター類型と強く結びついた、ステレオタイプ化された言葉遣いとして定着したものである。金水はこれを、現実の日本語とは異なる「ヴァーチャル日本語」と位置づけている。例えば、「わしは知っておるのじゃ」という言葉遣いを聞けば、日本語話者は即座に賢明な老人や博士といったキャラクターを思い浮かべるが、現実の老科学者が皆このように話すわけではない。

この役割語の機能は、物語を効率的に伝達するための、極めて洗練された装置として理解することができる。特に、漫画やアニメのように、限られた時間や紙幅の中で物語を展開させなければならないメディアにおいて、役割語は絶大な効果を発揮する。登場人物が最初のセリフを発した瞬間に、読者や視聴者はそのキャラクターの基本的な属性(老人、お嬢様、やんちゃな少年など)を瞬時に把握することができる。これにより、作者は冗長な性格描写を省略し、物語の本筋に集中することが可能になる。

このように考えると、役割語は単なる言語的特徴にとどまらず、ハイコンテクストなメディア消費に適応したコミュニケーション・テクノロジーであると言える。それは、キャラクターのアイデンティティに関する情報を、最小限のデータ(言葉遣い)に圧縮して伝達する技術である。そして、そのデータを解凍(デコード)するためのアルゴリズムこそが、受け手である我々が共有する文化的な知識、すなわち文化的同一性なのである。この共有知識がなければ、役割語は単なる奇妙な言葉遣いに過ぎず、その物語的機能は失われてしまう。

第3部 ケーススタディ I:「ボクっ娘」の解体—ペルソナとしての人称代名詞

前部で確立した理論的枠組みを、具体的な事例に適用する。最初に取り上げるのは、単一の人称代名詞の選択が、いかに豊かで複雑な記号的行為となりうるかを示す「ボクっ娘」というキャラクター類型である。

3.1 「ボクっ娘」の起源と文化的ニッチ

「ボクっ娘(ボクっこ)」とは、主にフィクションの世界において、伝統的に男性が使用する一人称代名詞「ボク」を自称する少女キャラクターを指す総称である。この類型は、戦前の文学作品、例えば横溝正史の『獄門島』に登場する鬼頭早苗のようなキャラクターにその萌芽を見ることができる。

戦後のサブカルチャーにおいてこの系譜を確立したのは、手塚治虫の功績が大きい。ただし、しばしば初期の例として挙げられる『リボンの騎士』(1953年)のサファイアは、物語の設定上、男性として育てられ、そのように振る舞っているため、本稿で論じる自発的なアイデンティティ表現としての「ボクっ娘」とは厳密には異なる。明確に「ボク」という一人称と女性的な語尾を組み合わせる「ねじれた役割語」の原型は、手塚の『ひまわりさん』(1956年)の主人公、風野日由子に見られる。そして、このキャラクター類型が広く認知される契機となったのが、『三つ目がとおる』(1974年)のヒロイン、和登千代子である。彼女の快活で男勝りな性格と一人称の組み合わせは、その後の少年漫画やアニメにおける「ボクっ娘」像の雛形となり、多くの後続作品に影響を与えた。こうした歴史的経緯を経て、「ボク」という一人称と「少年らしい活発さを持つ少女」というキャラクター像との間に強固な結びつきが形成され、受け手が瞬時に意味を解読できる文化的コードとして定着したのである。

3.2 「ボク」の記号論:意味の多層性の解体

女性キャラクターによる「ボク」の使用は、単に「男性的である」という単純なメッセージを伝えているわけではない。それは、複数の、時には相矛盾する観念を同時に発信する、極めて複雑な記号(サイン)として機能する。

第一に、性別的な自己呈示の側面がある。この言葉遣いは、伝統的な女性性からの逸脱を明確に示し、ボーイッシュで中性的な性格を暗示することが多い。しかし、必ずしも外見や行動が男性的であるとは限らず、フェミニンな容姿のキャラクターが「ボク」を用いることで、そのギャップがキャラクターの魅力を増幅させることもある。

第二に、心理状態の表象としての機能である。「ボク」は、現実社会では主に少年が用いる一人称であるため、キャラクターに純粋さ、未成熟さ、あるいは性的な成熟以前の子供のようなアイデンティティを付与することがある。また、タレントの春名風花が述べるように、「わたし」という一人称が持つ堅苦しさや、他者との関係性における特定の役割(女性としての役割)を回避し、より「対等に話せる」ニュートラルな自己を志向する願望の現れとして解釈することも可能である。

第三に、物語的機能である。「ボクっ娘」の最大の魅力の一つは、その性別(女性)と言葉遣い(男性的)の間に生じる「ギャップ」と、その背景にある「謎」(なぜ彼女は『ボク』を使うのか?)にあると指摘されている。このギャップと謎が、読者や視聴者の興味を引きつけ、キャラクターへの感情移入を促す。

さらに、この類型は「ねじれた役割語」という、より洗練された表現技法を生み出した。これは、男性的な一人称「ボク」と、典型的に女性的とされる文末表現(例:「〜だわ」「〜なのよ」)を意図的に組み合わせる手法である。この組み合わせにより、キャラクターは完全に男性的でも伝統的に女性的でもない、両方の属性を併せ持つ独自の、そして極めてニュアンスに富んだアイデンティティを獲得する。この「男っぽさの中にある女らしさ」という二重性が、キャラクターに深みと複雑さを与えるのである。

3.3 ローコンテクストにおける思考実験:翻訳の挑戦

「ボクっ娘」が持つ情報の密度と表現戦略を浮き彫りにするため、思考実験を行ってみよう。このキャラクターの持つニュアンスを、英語というローコンテクスト言語で完全に再現するにはどうすればよいだろうか。

英語の一人称代名詞 “I” は性別に関して中立であるため、代名詞の選択だけでは何の情報も伝えられない。「ボク」という一語に圧縮されていたすべての情報—伝統的女性性からの距離、純粋さ、対等な関係への志向、ジェンダーの二重性—は、「解凍」され、他の言語的手段によって明示的に表現されなければならない。

具体的には、以下のような手法が必要となるだろう。

  • 直接的な台詞:「I’m not like other girls.(私は他の女の子とは違うの)」といった自己言及的な発言。
  • 行動や外見の描写:ボーイッシュな服装や振る舞いを文章で詳細に説明する。
  • 他者からの評価:他のキャラクターに「She’s a bit of a tomboy.(彼女はちょっとおてんばだね)」と言わせる。

この比較は、両言語の表現戦略における根本的な違いを明確に示す。日本語版は、「ボク」という一語で示す(showing)ことができる。それに対し、英語版は、その背景にある意味を複数の文で語る(telling)必要がある。これは、日本語の特定の語彙が持つ高い情報密度と、それを支える文化的基盤の存在を如実に物語っている。

この「ボクっ娘」という類型は、単なるフィクションの約束事を超えて、現代日本社会におけるジェンダー役割に関する文化的対話の場として機能している側面も持つ。ジェンダーによって厳格にコード化された言語体系の存在を前提として、その規則の一つ(人称代名詞)を選択的に破り、しかし他の規則(女性的な文末表現など)にはしばしば従うことで、「ボクっ娘」は既存のシステムを完全に拒絶するのではなく、その内部で新たなポジションを交渉している。それは、伝統的な女性性の枠組みから自由になりたいという願望と、完全に女性的アイデンティティを放棄するわけではないという複雑な心理を体現した、フィクション上の解決策なのである。

第4部 ケーススタディ II:コロンボの公理—人格を注入する翻訳

第二のケーススタディでは、一つの言語内でのキャラクター創造から、言語間でのキャラクター適応へと視点を移す。ここでは、アメリカのテレビドラマ『刑事コロンボ』の日本語吹き替え版が、翻訳という行為を通じていかにしてキャラクターに新たな深みを与えたかを分析する。

4.1 “My wife” から「ウチのかみさん」へ:含意の懸隔

オリジナルの英語版において、コロンボ警部が頻繁に口にする「My wife」というフレーズは、言語学的には極めて中立的で、事実を記述する所有格表現に過ぎない。それは文字通り「私の妻」を意味し、話者であるコロンボの年齢、性格、社会的背景に関する情報をほとんど含んでいない。

ところが、日本語吹き替え版では、このフレーズは「ウチのかみさん」と訳された。この翻訳は、日本の視聴者にとって、もはやコロンボというキャラクターと分ちがたく結びついた象徴的なセリフとなっている。この二つのフレーズの間には、含意(コノテーション)の大きな懸隔が存在する。

「ウチのかみさん」という表現を分解すると、その情報密度の高さが明らかになる。

  • 「ウチ」:この言葉は、単なる「私」よりも「私の家」「我々の所帯」といった共同体的なニュアンスを持つ。これにより、コロンボの発言に家庭的で、ややくだけた、庶民的な響きが加わる。
  • 「かみさん」:これは妻を指す口語的で、やや古風な表現であり、主にある程度の年齢に達した男性が、親しみを込めて、しかし少しばかり伝統的な夫婦観を背景に用いる言葉である。

この「ウチのかみさん」という一言の選択によって、オリジナルの英語には明示されていなかったコロンボの人物像が、日本の視聴者の前にはっきりと描き出される。すなわち、彼はエリート然とした切れ者刑事ではなく、庶民的で、気取らず、もしかしたら少し尻に敷かれているかもしれないが、妻を愛する中年男性である、という豊かな人格的背景である。この一言が、キャラクターに血肉を与え、視聴者の共感を呼ぶ上で決定的な役割を果たした。

4.2 ハイコンテクストへの適応としての「創訳」

この翻訳は、その逐語的な正確さではなく、キャラクターの本質を見事に捉え、日本文化の文脈に適合させた創造的な手腕から、「創訳(そうやく)」として高く評価されている。翻訳者である額田やえ子は、単に単語を置き換えていたのではない。彼女は、ローコンテクストな言語で創造されたキャラクターを、ハイコンテクストな文化の受け手に向けて適応させていたのである。

もしこのセリフが、文字通り「私の妻(わたしのつま)」と訳されていたならば、日本の視聴者には非常に冷たく、よそよそしく、コロンボの人間味あふれるキャラクターとはそぐわないものとして響いただろう。日本のコミュニケーション文化では、言語表現が話者の人格や感情を色濃く反映することが期待される。額田は、この文化的期待を深く理解し、原作のキャラクターが持つであろうと推察される社会的・心理的文脈を、日本語が持つ表現力豊かな語彙を用いて「注入」したのである。

この事例は、翻訳における「忠実さ」の概念に重要な問いを投げかける。特に、ローコンテクスト言語からハイコンテクスト言語への翻訳においては、原作の持つ感情的・人格的なインパクトを再現するためには、原作には存在しない文脈情報を付加することが、かえってより高いレベルでの「忠実さ」につながる場合があることを示している。

このコロンボの事例は、ハイコンテクスト言語とローコンテクスト言語間の翻訳に存在する根本的な非対称性を明らかにしている。ハイコンテクストからローコンテクストへの翻訳は、しばしば文脈の「解凍」と明示化を伴う。そこでは、原作のニュアンスが失われ、それを説明的な言葉で補う必要が生じる。しかし、コロンボの事例が示すように、ローコンテクストからハイコンテクストへの翻訳は、原作にはなかった文脈情報を翻訳に「圧縮」する機会(あるいは必要性)を提供する。翻訳者は、ターゲットとなる文化の聴衆にとってキャラクターが「リアル」に感じられるよう、その人物像にふさわしい社会的・心理的文脈を推測し、構築しなければならない。このプロセスにおいて、翻訳者は単なる言語の変換者ではなく、ターゲット文化におけるキャラクターの共同創造者となるのである。

第5部 結論:翻訳の壁と文学的価値の普遍性への問い

本稿の最終部では、これまでの分析を基に、言語と文化の不可分な関係性が、国際的な文学評価の営みそのものに投げかける根源的な問いを考察する。

5.1 文学における翻訳の非対称性

これまでの分析で見てきた言語表現と文化的背景の不可分な関係性は、文学という領域において、翻訳が内包する根源的な問題をより鮮明にする。そもそも文学とは、単に物語の筋を伝達する作業ではない。それは、言葉の響き、リズム、そして文字だけで読者の内に豊かな情景やキャラクター像を喚起できるかという、表現の芸術である。この芸術性を異なる言語文化圏で再現しようとするとき、翻訳という行為は、その方向性によって全く異なる性質の困難に直面する。

ハイコンテクスト言語からローコンテクスト言語への翻訳、例えば「ボクっ娘」のニュアンスを英語で伝えようとする場合、その高密度に圧縮された情報は「解凍」され、説明的な言葉で補われなければならない。この過程で、原作が持つ一語の簡潔さや、文化的背景を共有する者だけが感じ取れる表現の美しさは、必然的に損なわれる。文学的価値は、伝達の過程で劣化するリスクを常に負う。

逆に、ローコンテクスト言語からハイコンテクスト言語への翻訳、すなわち『刑事コロンボ』の事例では、翻訳者は原作には明示されていない文脈情報を付加し、キャラクターに血肉を与える「創訳」という創造的行為を求められる。ここでの翻訳は、原作の価値を忠実に再現するというより、ターゲット文化の中で新たな価値を創造する作業に近い。

5.2 誰の功績か:作者と翻訳者の境界

この翻訳の非対称性は、作品の功績が誰に帰属するのかという問いを提起する。「ウチのかみさん」という言葉がコロンボの魅力を決定づけたのであれば、その魅力の創造者は原作者なのか、それとも翻訳者なのか。その功績は、もはや原作者と翻訳者の共同作業の産物であり、賞賛の半分、あるいはそれ以上が翻訳者に与えられるべきだとさえ言えるかもしれない。

1968年に川端康成がノーベル文学賞を受賞した際、その格調高い英訳が受賞に大きく貢献したことは広く知られている。これは翻訳の重要性を示す美談であると同時に、我々が評価しているものが、純粋な「原作」なのか、それとも翻訳者というフィルターを通して、その表現力が一部損なわれ、あるいは巧みに再創造された「作品」なのか、という境界を曖昧にする。

5.3 国際文学賞の意義を問う

この問題は、ノーベル文学賞に代表される国際的な文学賞の存在意義そのものに影を落とす。異なる言語と文化的背景を持つ審査員が作品を評価する際、翻訳は避けて通れない。しかし、本稿で見てきたように、翻訳された作品は、原作とは本質的に異なる存在である。特に、日本文学のようなハイコンテクストな文化圏の作品が国際的な評価の俎上に載る場合、翻訳者は深刻なジレンマに直面する。表現の核となる文化的ニュアンスを伝えようとすれば、どうしても直接的な説明が付加され、原作が持つ文の簡潔さやリズムといった文学的な美しさが損なわれてしまう。一方で、ローコンテクスト言語での文学的な美しさを追求すれば、本来の意味の深みが抜け落ちてしまう。この二律背反の課題を乗り越え、意味の忠実性と芸術性を両立させる翻訳の極めて高い難易度こそが、日本文学が国際的な評価を得にくい一因となっている可能性は否定できない。

そうであるならば、我々は問わなければならない。ある文学作品を、それが生まれ育った言語と文化という土壌から引き剥がし、翻訳という名の変容を経た上で、普遍的な基準でその優劣を競うことに、一体どのような意味があるのだろうか。それは、異なる生態系で育った全く別の植物を、同じ一つの物差しで測ろうとする試みに似てはいないだろうか。言語の多様性が思考と文化の多様性の証であるならば、真に尊重されるべきは、言語の壁を越えた普遍的な価値という幻想ではなく、それぞれの言語文化圏の中でしか咲き得ない、固有で比較不可能な文学の価値そのものではないだろうか。