概要 (Abstract)
本稿は、日本語の一人称・二人称が単なる文法的な代名詞ではなく、具体的な意味や社会的役割を担う「役割語」として機能する点に着目する。この特性が、いかにして最小限の言語単位で豊かなキャラクター像を構築しうるかを、ポップカルチャーにおける類型「ボクっ娘」を主たる分析対象として解明する。
特に文学や文字媒体において、意図された「矛盾」が性別の誤認ではなくキャラクターの属性として成立するメカニズムを分析する。その際、話者の性別を強く示唆する女性的文末詞の機能に加え、同じ音の言葉を複数の文字種(漢字・ひらがな・カタカナ)で書き分けられる日本語の特性、とりわけカタカナ表記「ボク」が持つ記号的な役割に着目する。これら二重の言語的装置が、いかにして誤読を防ぎ、意味を生成するのかを記号論的に解明する。さらに、この現象の翻訳不可能性を英語との比較で論証し、一方でタイ語など構造的類似性を持つ言語との対照を通じて、日本語の人称詞が持つ「役割語」としての特異性と表現力を浮き彫りにすることを目的とする。
第1章:序論:役割語としての日本語人称詞
1-1. 問題提起:純粋代名詞と役割語の分岐
多くの言語において、人称代名詞は文法的な指示機能に特化している。例えば英語の “I” は、話者自身を指すという機能以外の社会的・人格的情報をほとんど内包しない「純粋代名詞」である 。これに対し、日本語の人称詞は、話者の人物像と密接に結びついた「役割語 (character-role language)」としての機能を持つ。この概念は言語学者の金水敏によって提唱されたもので、特定の言葉遣いが話者の年齢、性別、職業、社会的地位といった人物類型を即座に聞き手(読み手)に想起させる現象を指す 。例えば、「わしはその秘密を知っておるのじゃ」という発話は、一人称「わし」と文末の「~のじゃ」によって、話者が老人であるというステレオタイプな人物像を瞬時に伝達する 。
この機能は、特にフィクションの世界において、物語の資源を大幅に節約する効果を持つ 。作者は、キャラクターの背景を長々と説明することなく、その話し方だけでキャラクターの類型を簡潔かつ効果的に提示できる。この役割語のメカニズムは、言語共同体内で広く共有された「話し方と人物像の対応関係」という知識基盤の上に成り立っている 。
この日本語の特性は、英語圏の言語研究の関心事とは根本的に異なる地平にある。英語における近年の代名詞研究は、三人称単数の性別中立的表現(例えば、従来の “he” に代わる単数 “they” の使用)が、いかにして性別に対する偏見を低減し、包括性を高めるかといった社会的な課題に焦点を当てている 。ここでの問題は、いかにして代名詞から性別情報を「取り除く」かにある。対照的に、日本語では一人称のレベルで、いかに性別を含む多様な社会的情報を「付与」し、表現するかが問題となる。つまり、日本語における一人称の選択は、単なる文法的な手続きではなく、話者が自らの社会的な自己認識を表明し、演じるための能動的な「言語行為」なのである。この機能的な分岐点こそが、本稿が探求する表現力の源泉である。
1-2. 分析対象としての「ボクっ娘」:文脈における矛盾の創出
日本語の人称詞が持つ役割語としての機能が、最も先鋭的かつ効果的に現れる事例が、ポップカルチャーにおける類型「ボクっ娘」である。「ボクっ娘」とは、一般的に若い女性キャラクターが、男性が用いる一人称「ボク」を自称する類型を指す。この現象は、イラストや音声といった非言語情報が一切存在しない小説などの文字媒体において、その本質が最も純粋な形で現れる。なぜなら、キャラクターに関するすべての情報が、言語表現そのものに依存せざるを得ないからである。
ここで本研究が中心的に立てる問いは、「なぜ、少女が男性的な一人称である『ボク』を使用するという一文節が、話者の性別に関する誤解や混乱を招くことなく、逆に『少年らしい』『芯が強い』『既存の女性像に囚われない』といった、豊かで魅力的なキャラクターの情報を読み手に即座に伝達できるのか」という点にある。この現象は、人称詞が単なる指示機能を超え、高度な意味生成の機能を担っていることを明確に示唆している。それは、意図的に仕組まれた言語的な「矛盾」が、いかにして新たな意味を創出するのかという、記号論的な問いでもある。
1-3. 研究の射程と構成
本稿の目的は、日本語の人称詞が持つ「役割語」としての機能を、「ボクっ娘」という具体的な事例の分析を通じて、その歴史的背景、記号論的なメカニズム、そして比較言語学的な位置づけを明らかにすることにある。
そのために、まず第2章で、日本語の人称詞がなぜ役割語として機能するのか、その歴史的背景と構造的特質を明らかにする。第3章では、本稿の中心となる事例研究として、「ボクっ娘」が文章においていかにして意味を生成するのかを記号論的に分析し、特に文末詞と表記法が果たす決定的な役割を論証する。第4章では、比較言語学的な視点から、この現象が英語へは翻訳不可能である一方、タイ語とは構造的な並行性を持つことを示し、その普遍性と特殊性を検証する。最後に第5章で、本研究全体の知見を総括し、今後の役割語研究への展望を示す。
第2章:日本語人称詞の歴史的背景と構造的特質
2-1. 普通名詞からの転用史と意味の固着
日本語の人称詞が持つ豊かな含意と多様性は、その多くが純粋な代名詞として生まれたのではなく、具体的な意味を持つ普通名詞から転用された歴史に深く根差している。この語源的な出自が、現代に至るまで消えることのない「意味の残滓」として、各人称詞に固有の響きを付与しているのである。
例えば、現代で最も改まった一人称とされる「わたくし(私)」は、元来「公(おおやけ)」、すなわち共同体や国家に対置される「個人」や「私事」を意味する言葉であった 。この「公/私」という対立構造の背景が、現代でも「わたくし」に公的な場面での使用に適した響きを与えている。
男性が主に使用する「僕」は、もともと「下僕」や「召使い」を意味する言葉であり、相手に対する謙遜の意を含んでいた 。この謙譲的な出自が、現代の「僕」に「俺」ほどの攻撃性や自己主張の強さを感じさせず、やや穏やかで丁寧、あるいは年少者的な含みを与える一因となっている。
一方で、同じく男性語である「俺」は、古代から存在する古い人称詞だが、その歴史の中で待遇価値は大きく変動した。かつては男女ともに使用され、丁寧な語感を持つこともあったが、江戸時代後期には次第に敬意が低下し、男性が私的な場面で用いる、やや粗野でうちとけた言葉として定着していった 。
さらに、「貴様」のように、かつては相手への敬意を示す尊称であったものが、時代を経るにつれて相手を罵る言葉へと意味が完全に反転した例も存在する 。これらの歴史的変遷は、日本語の人称詞が固定的な文法機能語ではなく、社会関係や価値観の変化を映し出す、きわめて動的な語彙であったことを示している。この普通名詞からの転用という歴史的経緯こそが、各人称詞に特定の社会的・人格的イメージを固着させ、役割語としての機能を可能にする土壌を形成したのである。
2-2. 意味の座標軸としての現代人称詞
現代日本語で用いられる主要な人称詞群は、話者が社会的・心理的な座標軸上のどこに自らを位置づけるかを示す、多次元的な意味の体系として機能している。話者は、対話の相手や状況、そして自らが演じたい役割に応じて、この体系から最適な座標を持つ言葉を無意識的に選択する。この選択行為自体が、自己のあり方を表明する重要な意思疎通となっている。
この体系は、少なくとも以下の三つの主要な意味軸によって構成されていると考えられる。
- 公的性の軸: 発話がなされる場面の公的性の度合いを示す。「わたくし」が最も公的性が高く、「俺」が最も私的性が高い。
- 性別の軸: 話者の性別との典型的な結びつきを示す。「あたし」は女性的、「僕」「俺」は男性的、「私」は比較的性別中立的に位置づけられる。
- 力関係・丁寧さの軸: 話者と聞き手の間の力関係や、話者の自己呈示のあり方を示す。「僕」は謙遜や穏やかさを含意する一方、「俺」は対等もしくは尊大な自己主張を含意する。
この構造を簡潔に示せば、以下の表1のようになる。
表1: 主要な日本語一人称の意味体系
| 一人称 | 公的性 | 性別との関連 | 自己呈示(力関係・丁寧さ) |
| わたくし | 高(公的) | 中立 | 非常に丁寧・謙譲 |
| 私 (わたし) | 中(準公的) | 中立、女性的 | 丁寧 |
| 僕 (ぼく) | 低(私的) | 男性的 | やや謙遜的・穏やか |
| 俺 (おれ) | 非常に低(私的) | 男性的 | 対等・自己主張的 |
| あたし | 非常に低(私的) | 女性的 | うちとけた・親密 |
この体系を見れば、「ボクっ娘」という現象が、いかに意図的な座標の逸脱であるかが一目瞭然となる。女性の話者が、性別との関連の軸において明確に「男性的」と位置づけられる「僕」を選択することは、この体系が前提とする規範からの逸脱であり、その逸脱行為そのものが、特別な意味を生成するための引き金となるのである。
第3章:事例研究:「ボクっ娘」における意味生成のメカニズム
3-1. 記号論的分析:矛盾による類型の創出
「ボクっ娘」がもたらす豊かなキャラクター像は、記号論の枠組みを用いることで、その意味生成のメカニズムを精密に解き明かすことができる。この現象は、単なる言葉の誤用ではなく、意図的に仕組まれた記号的な「矛盾」が、文化的な共通認識(コード)を介して新たな意味を生成する、高度な記号操作である 。
第1段階:一次的な記号内容の提示
まず、記号表現である「ボク」という言葉は、それ自体が役割語として確立された記号内容を持つ。日本語の言語文化圏において、「ボク」は一般的に [若い・男性・やや穏やか・内省的] といった人物像と結びついている。これが一次的な記号作用である。
第2段階:記号内容と話者属性の衝突
次に、この記号が、文脈上 [若い・女性] という属性を持つ話者(「娘」)によって使用される。この瞬間、一次的な記号内容である [男性] と、話者の属性である [女性] との間に、明確な矛盾・衝突が発生する。読み手は、論理的に両立しない二つの情報に同時に直面することになる。
第3段階:文化的コードによる矛盾の解決と二次的意味生成
この矛盾に直面した読み手は、これを単なる間違いとして棄却するのではなく、矛盾を解決するための解釈を能動的に試みる。この解釈の際に参照されるのが、その文化圏で共有されている「コード」である 。この場合のコードとは、「少年らしい少女は魅力的である」「外見や性別と内面の隔たりは、キャラクターに深みを与える」「既存の女性らしさの規範に囚われない自立した精神は好ましい」といった、ポップカルチャーなどを通じて共有された一連の価値観や美的感覚である。
読み手はこれらのコードを適用することで、言語的な矛盾を「少年らしい」「芯が強い」「さっぱりしている」「媚びない」といった、一貫したキャラクターの属性へと昇華させる。この過程を通じて生成される新たな記号内容こそが、「ボクっ娘」という類型の正体である。この意味生成は、言語行為が単なる情報の伝達ではなく、自己のあり方を能動的に構築し、演じる「遂行的側面」を持つことを浮き彫りにする。話者は「ボク」という言葉を選ぶ行為によって、自らが「少年らしい役割」を演じていることを宣言しているのである。この言語行為そのものが、キャラクターを定義する高次の伝達内容となっている。
3-2. 矛盾の成立を保証する二重の安全装置:文末詞と表記
前節で述べた記号論的なメカニズムが、特に音声やイラストのない文章のみで円滑に機能するためには、一つの絶対的な条件がある。それは、読み手が話者の性別について一切の混乱をきたさないことである。もし読み手が「この『ボク』と発話している人物は、本当に男性なのか女性なのか」と迷ってしまうならば、意図された「矛盾」は成立せず、単なる情報不足として処理されてしまう。この誤読を防ぎ、意図された矛盾を確実に読み手に伝えるために、日本語の文章、特にフィクションにおいては、二重の巧妙な言語的装置が機能している。
第一の装置:文末詞による「女性証明」
第一の、そして最も強力な装置が、文末詞の存在である。日本語には、「~わ」「~のよ」「~かしら」といった、使用者がほぼ女性に限定される、強力な性別を標示する要素として機能する文末詞が存在する 。これらはフィクションの世界で、話者が女性であることを示す役割語として広く認知されている 。次の一文を考えたい。
「ボクはそう思うわ。」
この一文において、読み手は二つの異なる性別情報を受け取る。
- 一人称「ボク」: 話者が男性的な自己認識、あるいは役割を演じていることを示すシグナル。
- 文末詞「~わ」: 話者の社会的な性別が女性であることを強く示唆し、特定する上で強力な手がかりとなる役割を果たす。
有泉 (2007) の研究によれば、性別に反した文末表現の使用は、むしろその表現が持つ性別的な印象を強める効果がある(クロス・ジェンダー効果)。この場合、文末詞「わ」という強力な「女性証明」が、話者の性別を女性であると強く示唆するため、読み手は性別の誤認に陥ることなく、「女性である話者が、あえて男性的な一人称を選択している」という意図的な不一致を明確に認識できる。
第二の装置:カタカナ表記による「異化効果」
しかし、文末詞が持つ性別への強い示唆をもってしても、「女性的な言葉遣いをする男性」という解釈の可能性を完全に排除しきれない、という見方も可能かもしれない。ここで、日本語が持つ表記の多様性という、第二の安全装置が極めて重要な役割を果たす。同じ「ぼく」という音の言葉でも、漢字「僕」、ひらがな「ぼく」、カタカナ「ボク」では、読み手に与える印象が異なる。
- 僕(漢字): 最も標準的で、やや改まった印象を与える 。
- ぼく(ひらがな): 漢字に比べて柔らかく、優しい、あるいは年少者的な印象を与える 。
- ボク(カタカナ): 意図的に標準からずらした印象を与え、「気取った感じ」や「普通ではない位置づけ」を示唆する効果を持つ 。
「ボクっ娘」のキャラクターが、しばしば意図的にカタカナ表記の「ボク」を用いるのは、この表記が持つ「異化効果」のためである。カタカナ表記は、その言葉を日常的な文脈から切り離し、特別な意味合いを付与する機能を持つ。この場合、「ボク」という表記は、単に男性一人称を借用しているだけでなく、「これは標準的な男性としての『僕』ではない」という高次の伝達内容を同時に発している。つまり、表記そのものが、性別の規範からの逸脱を暗示する記号として機能しているのである。
このように、強力な性別標示要素である文末詞が話者の性別を「女性」であると強く示唆し(第一の装置)、同時にカタカナ表記「ボク」がその一人称の選択が「標準的ではない意図的な行為」であることを示唆する(第二の装置)。この二重の安全装置によって、読み手は話者の性別を誤解する余地なく、その言語的矛盾を「少年らしい」「芯が強い」といった豊かなキャラクターの属性として、円滑かつ正確に解読することが可能になるのである。
3-3. ポップカルチャーにおける「ボクっ娘」の系譜と定着
本稿で分析した記号操作が成立するためには、その解釈の基盤となる文化的コードが社会に広く共有されている必要がある。類型「ボクっ娘」の場合、そのコードは一朝一夕に形成されたものではなく、半世紀以上にわたるポップカルチャー、特にマンガにおける表現の蓄積によって醸成されてきた。
この系譜は、しばしば「マンガの神様」と称される手塚治虫の作品にまで遡ることができる。女性キャラクターが一人称を用いる初期の例として、男として育てられた王女を描いた『リボンの騎士』(1953年)のサファイアが挙げられるが、これは物語の設定上、男性を演じているため、厳密な意味での「ボクっ娘」とは異なる 。
明確に「ねじれた役割語」(男性的な一人称と女性的な文末詞の組み合わせ)を使用する最初の「ボクっ娘」は、同じく手塚治虫による『ひまわりさん』(1956年)の主人公、風野日由子であるとされる 。彼女は「ぼくは~なの」といった話し方をし、本稿で分析した言語構造の原型を提示した 。この時点ではひらがな表記の「ぼく」が用いられていたが、性別を意図的に交差させる表現の萌芽であったと言える。
そして、この類型が広く認知される契機となったのが、1970年代に登場した手塚治虫『三つ目がとおる』(1974年)のヒロイン、和登千代子である 。彼女の快活で男勝りな性格と一人称の組み合わせは、その後の少年マンガやアニメにおける「ボクっ娘」像の雛形となり、多くの後続作品に影響を与えた。こうした歴史的な積み重ねの中で、前節で述べたカタカナ表記「ボク」のような、より洗練された記号操作も加わり、「ボク」という一人称と「少年らしい少女」というキャラクター像との間に強固な結びつきが形成され、読み手が瞬時に意味を解読できる文化的コードを社会に定着させたのである。
第4章:比較言語学的考察:翻訳の不可能性と構造的普遍性
4-1. 英語への翻訳における「意味の蒸発」
「ボクっ娘」が持つ豊かな含意と、その意味生成の動的な働きを英語に完全に翻訳することは、原理的に不可能である。この翻訳不可能性は、単語レベルの対応関係の欠如に起因するのではなく、両言語の代名詞の仕組みが持つ根本的な構造の違いに由来する。
英語の第一人称代名詞は “I” のみであり、話者の性別、年齢、社会的地位、性格といった情報を内包しない、文法的に中立な「純粋代名詞」である 。そのため、日本語の「ボクっ娘」現象の核となっている「複数の選択肢の中から、あえて性別的に逸脱した人称詞を選択するという行為自体が持つ意味」が、英語には存在しない。さらに、日本語のように同じ音の単語を漢字、ひらがな、カタカナで書き分けることで含意を付加する表記の仕組みも存在しない。
例えば、「ボクはそう思うわ。」という一文を英語に訳そうとすると、”I think so.” となる。この訳文は、元の文が持つ論理的な意味内容は保持しているが、キャラクターに関するすべての情報、すなわち「話者は女性である」「彼女は自らを男性的な役割で位置づけている」「その選択はカタカナ表記によって意図的なものとして強調されている」「その結果として少年らしい印象を与える」といった、役割語と表記法が生み出す豊かな含意は完全に失われてしまう。この現象を本稿では「意味の蒸発」と呼ぶ。
翻訳者がこの蒸発した意味を補おうとすれば、”She, a tomboy, thinks so.” のように形容詞句を加えたり、”She refers to herself using the masculine pronoun ‘boku’.” のように言葉で説明を付加したりするしかない。しかし、これらはいずれもキャラクターの「属性を説明」しているに過ぎない。日本語の「ボクは~わ」が持つ、話者自らが「言語行為によって属性を表明し、遂行する」という動的な働きは、この過程で不可逆的に失われる。これは、日本語の人称詞が「役割語」であるのに対し、英語の “I” が純粋代名詞であるという、両言語の根源的な構造的非対称性の必然的な帰結なのである。
4-2. タイ語との構造的並行性という論証
「ボクっ娘」という表現形式は、日本文化にのみ固有の特殊な現象ではない。それは、「役割語」的な人称詞の仕組みを持つ特定の言語構造から、必然的に生まれうる普遍的な言語表現である。この仮説は、タイ語との比較によって強力に支持される。特筆すべきは、タイ語が、日本語の「ボクっ娘」を可能にする言語的メカニズムの核心部分において、驚くほど酷似した構造を備えている点である。
タイ語には、日本語と同様に、話者の性別によって使い分けられる一人称代名詞と、同じく性別で分かれた丁寧な文末詞が存在する 。
- 男性: 一人称 ผม (phom) + 文末詞 ครับ (khrap)
- 女性: 一人称 ฉัน (chan) / ดิฉัน (dichan) + 文末詞 คะ (kha)
この構造を利用することで、日本語の「ボクっ娘」と全く同じ方法で、意図的な矛盾を創出し、特殊なキャラクターの性質を表現することが可能となる。具体的には、女性の話者が男性の一人称と女性の文末詞を組み合わせて発話することができる。
- タイ語: 「ผม คิดว่าอย่างนั้น คะ」 (phom khit wa yang nan kha)
- 構造的直訳: 「(男性一人称の)ボクはそう思います(女性文末詞の)わ。」
この発話において、日本語の場合と完全に並行した意味生成が行われる。
- 一人称 ผม (phom): 話者が男性的な役割を担っていることを示す。
- 文末詞 คะ (kha): 話者が女性であることを文法的に強く示唆する。
このように、タイ語においても、女性文末詞が話者の性別を強く示唆する手がかりとして機能する。その上で男性一人称が使われることで、聞き手は性別を誤解することなく、その矛盾をキャラクターの個性(少年らしい、男性的、さっぱりしているなど)として解釈するのである。
これは単なる表面的な類似ではなく、「性別情報を持つ人称詞」と「性別を強く示唆する別の文法要素(文末詞)」を意図的に衝突させるという、核心部分において完全に同一の言語的メカニズムである。以下の表2は、この構造的差異を明確に示している。
表2: 性別を標示する要素の構造比較(日本語・タイ語・英語)
| 言語 | 性別情報を持つ一人称 | 性別を標示する文末詞 | 含意を付加する表記体系 |
| 日本語 | あり(僕、俺、あたし等) | あり(わ、のよ、だぜ等) | あり(漢字・ひらがな・カタカナ) |
| タイ語 | あり(ผม, ฉัน等) | あり(ครับ, คะ) | なし |
| 英語 | なし (I) | なし | なし |
この比較から、「ボクっ娘」的な表現は、表の最初の二つの条件を満たす言語構造から必然的に派生しうることがわかる。さらに、日本語はカタカナ表記という第三の要素によって、この表現をより洗練させ、誤読の可能性をさらに低減させる独自の進化を遂げたと言える。この事実は、言語構造が文化的な表現形式をいかに規定し、また文化的な要請が言語の運用をいかに洗練させるかを示す強力な証左となる。
第5章:結論
5-1. 本研究の総括と学術的貢献
本稿は、日本語の人称詞が単なる指示代名詞ではなく、話者が社会的文脈の中で自らの「役割」を選択し、表明するための能動的な道具、すなわち「役割語」であることを、その歴史的背景から論じた。その語源の多くが具体的な意味を持つ普通名詞に由来するため、各人称詞は現代に至るまでその「意味の残滓」を保持し、公的性、性別、力関係といった複数の意味軸からなる体系を形成している。
分析対象とした「ボクっ娘」は、この役割語の仕組みを意図的にずらし、記号的な「矛盾」を生じさせることで、極めて圧縮された形で豊かなキャラクター像を生み出す、高度な言語表現であることを明らかにした。この意味生成のメカニズムは、①男性性と結びついた一人称「ボク」と、②女性という話者属性との間に衝突を生じさせ、③文化的コードを介してその矛盾を「少年らしい」などのキャラクターの属性へと昇華させる、という記号論的な過程として説明できる。
特に本稿が強調したのは、文章において、この言語的矛盾が誤解なくキャラクターの属性として成立するための、二重の言語的装置の存在である。第一に、女性的な文末詞が話者の性別が女性であることを強く示唆する「女性証明」として機能する。第二に、日本語特有のカタカナ表記「ボク」が、その選択が標準からの意図的な逸脱であることを示唆する「異化効果」を生み出す。この強力な二重の安全装置があるからこそ、一人称「ボク」は性別指示の役割から解放され、純粋に性格を表現する記号として機能することが可能になる。
この知見の妥当性は、比較言語学的な考察によってさらに強固なものとなった。英語には「ボクっ娘」を可能にする構造が存在しないため、その含意は翻訳の過程で「蒸発」してしまう。一方で、タイ語は日本語と並行する構造(性別化された人称詞と文末詞)を持つため、同じメカニズムによる表現が可能である。この事実は、「ボクっ娘」という現象が日本文化に固有のものではなく、特定の言語構造から生まれうる普遍的な表現形式であることを示すと同時に、表記法を駆使する日本語の表現が持つ独自の洗練度を浮き彫りにした。
5-2. 今後の展望:役割語研究の新たな地平
本研究は、日本語の人称詞が持つ特異性と、その構造から生まれる表現力の普遍性の一端を明らかにした。この知見は、言語におけるキャラクターの表現論、翻訳研究、そして日本語の社会言語学的理解に貢献するものである。
今後の展望としては、本稿で提示した分析的枠組みを、他の役割語へと拡張することが考えられる。例えば、老人語(「ワシは~じゃ」)、お嬢様言葉(「わたくしは~ですわ」)、武士言葉(「拙者は~でござる」)といった、他の役割語が、それぞれどのような記号論的なメカニズムによって機能し、どのような文化的コードに支えられているのかを解明することは、役割語研究の全体像を把握する上で不可欠である。
さらに、現代社会における役割語の動態を追跡することも重要な課題である。インターネットやSNSといった新しい情報伝達手段の登場は、言語と自己認識の関係性を大きく変容させている 。これらの電子的な空間では、既存の役割語が新たな文脈で再利用されるだけでなく、全く新しい役割語(いわゆる「ネットスラング」や特定の共同体内言語)が生成・共有・陳腐化していく過程が日々観察される。言語が自己のあり方を構築する動的な過程であるという視点に立てば 、これらの新しい役割語が、現代社会における人々の自己認識や社会的関係性のあり方をどのように反映し、また形成しているのかを分析することは、言語学のみならず、社会学や文化研究にとってもきわめて有益な知見をもたらすであろう。