序章:偶然が導いた北の大地
旅の始まりは、いつもながらの気まぐれな試みだった。JALの「どこかにマイル」。行先を自分で選べない代わりに、格安で特典航空券を手に入れられるこのシステムは、私に「偶然」という名の冒険をさせてくれる。何度か画面をタップし、提示された四つの候補地の中から選ばれたのは、新千歳だった。
札幌、小樽、苫小牧といった主要な都市には過去に訪れたことがあり、今回は「行ったことのない土地」に身を置きたかった。地図を広げ、レンタカーでのアクセスが容易で、なおかつ壮大な自然がある場所を探す。そこで目に入ったのが、青く静かな湖面を持つ洞爺湖だった。
旅程は2025年10月4日から一泊二日。行きも帰りも夕方のフライトを選んだため、初日は移動だけで終わってしまうタイトなスケジュールだ。新千歳空港に着いたのは午後5時半過ぎ。レンタカー屋での手続きを経て、車に乗り込んだのはもう6時15分を回っていた。道央自動車道を南下し、洞爺湖温泉街のホテルを目指す。窓の外は、すでに漆黒の闇。夜の北海道の高速道路は、街灯も少なく、車内にはただエンジンの音と冷たい外気が漂っていた。ホテルに到着したのは7時半。素泊まりの予約だった私は、ある一つの目的のために急いでいた。ちなみに、私の部屋は浴場が目の前にあるという変わった配置だった。
第一章:焦燥の夜、豚串と湖上の芸術
ホテルに荷物を放り込んだ私が急いだのは、洞爺湖ロングラン花火大会を見るためだった。今年の開催は4月28日から10月31日までの187日間、毎日午後8時45分から20分間。この旅を決めた最大の動機が、この「毎夜の花火」だった。
しかし、温泉街は想像していたのとは異なる状況だった。主要なホテルやコンビニエンスストアの灯りで町全体は明るいものの、夜の営業をしている飲食店が極端に少ないのだ。時刻は7時45分ごろ。花火開始時刻の午後8時45分まで残された時間はわずか1時間だ。この切迫した状況の中で、焦燥感が募る。観光客の姿はパラパラと見かける程度だが、営業している数少ない店には客が集中しており、私が探しているような空席のある店は見つからない。夜に食事を提供する場所がこれほど少ないことに驚きながらも、ようやく灯りのもと辿り着いたのは、一軒の焼き鳥屋だった。
暖簾をくぐり、急いでメニューを見る。「焼き鳥」と言っても、ここは北海道、室蘭やきとりの店だ。串に刺さっているのは、鶏肉ではなく豚肉。生ビールを二杯、豚串を塩とタレで四本、そして箸休めに梅サラダを注文した。
梅サラダは、大根のスライスに梅肉ソースをかけ、梅干しが一粒添えられたシンプルな大根サラダ。そして主役の豚串は、塩味が私の口にはやや強すぎたが、甘辛いタレをまとった方は脂の旨みが引き立ち、ビールに最高に合った。慌ただしく食事を終え、会計を済ませた時には、すでに8時半を過ぎていた。
速足で湖畔に出ると、すでに人々が湖面に面してまばらに集まっていた。都会の花火大会のような密集ではないが、皆静かに開演を待っている。午後8時45分。静寂を切り裂く轟音と共に、一発目の花火が夜空に開いた。
この洞爺湖の花火は、湖上の船から打ち上げられることが最大の特徴だ。その素晴らしいところは、花火を打ち上げる船が温泉街の前を西から東へ移動していくことにある。これにより、どの場所から見ていても、常に花火を正面に見ることができる。
さらに特筆すべきは、水面での演出だった。モーターボートから火のついた花火を湖面に落としながら走ることで、打ち上げ花火の光と、水面で大きく開く反射光が一体となる。これにより、低い位置で大輪の花が二重に開くような、立体的な視覚効果を生み出していた。夜の闇と、静かな湖面、そして華やかな光の共演。偶然の旅の始まりを飾るには、あまりにも贅沢な時間だった。
花火の興奮冷めやらぬままホテルに戻り、浴衣に着替えて温泉へ向かう。飲んでいたこともあり、風呂から上がると猛烈な眠気に襲われ、そのまま掛け布団の上に倒れ込んで眠ってしまった。
第二章:湖の森の教訓と大地の鼓動
翌朝、夜の冷え込みの中で布団をかけずに寝た体が、冷え切っているのを感じて目覚めた。すぐに体を温めるために朝風呂へ向かう。この時、浴場が目の前の部屋だったことが、寝ぼけ眼で移動するには非常に便利だと感じた。
風呂から上がると、服に着替えてセイコーマートへ朝食を買いに出かけた。その帰り道、観光船乗り場に立ち寄り、中島へ渡る船の乗船時間を確認しておいた。
洞爺湖の中央には、大島、弁天島、観音島、饅頭島の大小四つの島が浮かんでおり、これらを総称して中島と呼ぶ。観光船で上陸できるのはそのうちの大島であり、ここには「中島・湖の森博物館」がある。
午前9時の船に、私は乗り込み、穏やかな湖面を滑るように進んで大島へと向かった。
大島に到着後、島内にある「中島・湖の森博物館」で入山手続きを済ませ、散策路へ。散策路は45分のショートコースの他、太平原までの往復2時間コース、島をぐるりと回る3時間コースが用意されていた。帰りの飛行機の時間も気にしつつ、午後の有珠山観光にも時間を割きたかったため、他のコースを諦め、島の自然を短時間で体験できる45分のショートコースを選択することになった。
鬱蒼とした森の中、エゾ松やカラマツの群生を見上げながら歩を進める。豊かな緑と静けさの中で、日常を忘れることができた。と、その時、スマートフォンの緊急速報メールが鳴り響いた。
「有珠山噴火の可能性があるため避難指示」
聞き慣れた警報音に一瞬にして血の気が引いた。まさか、旅の途中で本物の災害に遭遇するとは。もういちど画面をよく見ると、文頭に「訓練」と書かれていたが、その文字を読み飛ばすほど、警報音は衝撃的だった。詳細を確認し、訓練であるとわかり胸をなでおろすと同時に、この地域が常に火山活動と隣り合わせであることを痛感させられた。
散策路は急な上り坂だったが、自然に集中していたせいか、予定の45分よりも早く30分ほどで出発地点に戻ることができた。船の待ち時間を利用し、有料の博物館に入館。島の成り立ち、特異な植生、そして火山との関わりをパネルやビデオで学び、この後の行程への意識が高まった。
温泉街へ戻り、昼食を探す。昨夜と同じく、夜は閉まっていた店は昼間も閉まっており、飲食店は絶対的に少ない。行列のできている人気店を避け、空いていた店に入り刺身定食を注文した。魚の質は悪くなかったが、インバウンド観光客を意識してか、全体的に割高感が否めない。
第三章:ウソをつかない山との対話
午後の時間は、すべて火山に捧げた。
まず向かったのは、火山科学館。ここでは、2000年の噴火の記録が三面マルチビジョンで上映されており、その凄まじさに息をのんだ。さらに1977年の噴火を、振動と共に体感できる展示は、まさに大地が震える恐怖を教えてくれた。特に印象的だったのは、単なる現象だけでなく、避難所での暮らしにまでスポットを当てた展示だった。災害は自然現象であると同時に、人々の生活を一変させる社会的な出来事なのだと、強く感じさせられた。
科学館で学んだ後、その山側にある金比羅火口災害遺構散策路へ。ここからが本当の「対話」の始まりだった。
実際に2000年の噴火で泥流に襲われた公衆浴場「やすらぎの家」。公営住宅は、一階部分が泥流で埋まり、土石流で流された橋がぶつかった衝撃でコンクリートが砕け、鉄筋がむき出しになっていた。自然の力は、人間の営みをいとも容易く飲み込んでしまう。
しかし、ここで重要になるのが、有珠山が「ウソをつかない山」であるという事実だ。有珠山は1663年の目覚め以来、20年から50年程度の間隔で定期的に噴火を繰り返し、必ず前兆の有感地震群を伴う。この予測できる脅威があったため、2000年の噴火では甚大な物的被害が出たにもかかわらず、住民は事前に避難を完了させており、人的被害はゼロだった。遺構の悲惨な姿と、それを乗り越えた人々の歴史が、ここで初めて重なり合った。
さらに奥、噴火口を見るために金比羅山を登る。往復90分のルートは、ほぼすべてが急な坂道だ。10月5日だというのに、登り切る頃には汗だくになっていた。珠ちゃん火口は木々に覆われて見ることができなかったが、悪路を乗り越えてたどり着いた有くん火口は、遮るものが何もなく、その火口湖を眼下に望むことができた。大地が裂け、形を変えた、新しい風景。それは畏敬の念を抱かせる光景だった。
遺構の残る国道跡を通り、温泉街へ戻った時には、もう午後3時前になっていた。当初、予定していた有珠山山頂や昭和新山への訪問は、帰りの飛行機の時間を考えると断念せざるを得なかった。洞爺湖は、私が高をくくっていた以上に奥深い場所だったのだ。
終章:再訪を誓う
名残惜しい気持ちを抱えながらレンタカーを走らせ、午後5時頃、新千歳空港に到着した。少し早いが、ここで夕食を取ることに決め、スープカレーの店に入った。
頼んだのはカツスープカレー。カレースープの中にどっしりと豚カツが埋まっている。期待して口に運んだが、味は取り立てて特筆すべき感想のない、平凡なものだった。今回の旅では、夜の焼き鳥から昼の刺身定食、そして最後のスープカレーに至るまで、食の運に恵まれなかったことが唯一の心残りとなった。
搭乗を待つ間、旅を振り返る。
今回は中国の国慶節期間中ということもあり、中国人、韓国人をはじめとする海外からのお客さんが圧倒的に多かった。彼らが洞爺湖畔の観光を支えているように見え、壮大な自然に恵まれたこの場所が、日本人にとってはまだその魅力の全てに気づかれていないのではないかという、もったいなさを感じた。
飛行機が離陸する頃には、完全に日は暮れていた。最後に北の大地を上空から眺めることは叶わなかったが、私の記憶の中には、夜空に咲いた花火、中島の静寂、そして有珠山の力強い鼓動が鮮明に残っている。
わずか一泊二日では、この火と水の織りなす大地の魅力をすべて堪能することはできなかった。この旅は、洞爺湖という壮大なフィールドへの、ただの挨拶に過ぎない。必ず再訪し、今度は時間に追われることなく、有珠山から昭和新山まで、ゆっくりとこの大地の歴史を歩いてみたい。そんな誓いを胸に、私は帰路についた。