神話と記憶を辿る高千穂の旅


序章:神話の入り口、そして旅の予感

高千穂という地名は、私にとって単なる地理的な場所ではなく、日本の神話が息づく特別な世界への入り口を意味していた。古事記や日本書紀に描かれた神々の物語が、今なお人々の暮らしや風景に深く根ざしているという事実に、私はかねてより強い興味を抱いていた。今回の旅は、その神話の世界を五感で体験し、物語の真髄に触れることを目的としていた。
宮崎空港に到着した私は、レンタカーを借りて東九州自動車道を北上する。二時間ほど車を走らせると、次第に周囲の景色は一変する。深緑の山々が迫り、川が深く谷を刻み、険しい斜面に沿って集落が点在している。
この光景は、高千穂の街が持つ独特の成り立ちを物語っている。遠く阿蘇山の大噴火によって流れ出した火砕流が冷え固まり、長い年月をかけて五ヶ瀬川に侵食されてできたのが、高千穂峡の深く切り立った断崖「柱状節理」であり、この自然が形成した台地は、平地が少ない山間部において、河川の氾濫や土砂災害から人々を守る役割も果たしてきた。先人たちは、この高台の安全な場所に生活の拠点を築き、神話と自然に寄り添う暮らしを育んできた。


第一章:鉄道の記憶、夢の軌跡

高千穂に到着して最初に向かったのは、高千穂あまてらす鉄道の高千穂駅だ。町の中心部から少し離れ、やや高台に位置するこの駅は、かつて壮大な夢の起点だったという。この鉄道は、宮崎県と熊本県を結ぶ「九州横断鉄道」という国家プロジェクトの一部として、国鉄によって敷設工事が進められた。しかし、険しい峡谷を越えるためには、いくつもの長大な橋梁やトンネルが必要とされ、それは当時の技術者たちにとって前例のない挑戦だった。
高千穂駅の立地も、町の利便性よりも、この壮大な鉄道計画のルートを優先して決められたものだった。駅の先には、将来的に熊本方面へと向かうための切り通しがすでに掘られていたという。しかし、その夢は完結しなかった。1973年に着工した高森トンネルで、1975年に毎分36tもの異常出水が発生し工事が中断。これ以降、九州横断鉄道の全線開通という夢は幻となったが、高千穂線と高森線はそれぞれ独立した路線として長年にわたり人々の生活を支え続けた。
しかし、その命運は2005年の台風14号によって尽きた。この甚大な被害により、五ヶ瀬川に架かる二つの橋梁が押し流され、高千穂線は廃線へと追い込まれたのである。
しかし、物語はここで終わらない。地元の有志によって、廃線跡の一部が「高千穂あまてらす鉄道」として蘇った。現在、空港で荷物を運搬するトーイングトラクターを改造したという「グランドスーパーカート」が、かつての線路を走っている。わずか5.1km、約30分の旅だが、風光明媚な渓谷を駆け抜ける。グランドスーパーカートは、二つのトンネルを抜け、旧天岩戸駅を過ぎると、その旅のハイライトに差し掛かる。高さ105m、鉄道橋としては日本一の高さを誇る「高千穂橋梁」だ。
グランドスーパーカートは屋根や窓がないオープンな車両のため、遮るもののない大峡谷の雄大な景色を五感で感じることができた。橋の上で一時停車すると、眼下に広がるエメラルドグリーンの五ヶ瀬川と、切り立った断崖の迫力に圧倒された。足元には線路が見える強化ガラスの床があり、下を覗き込むと105mの高さに体がすくむような、心臓がドキドキする感覚を覚えた。景色はまるで絵画のように美しく、この高所からの眺めは一生忘れられない光景として心に刻まれた。

駅に戻り、高千穂鉄道記念資料館を訪れた。館内に入ると、まず目に飛び込んできたのは、廃線となった延岡から高千穂、そして未成区間である熊本の高森まで、全区間を再現した精巧なNゲージジオラマだった。ジオラマの運行を最後まで見届けた後、私は奥に目を移した。壁一面を使ったプロジェクターには、壮大な夢の続きを描く映像が映し出されており、このジオラマと映像はリンクしていた。映像では、現実には存在しない両区間を合わせて「ファンタジー線」と名付け、かつての壮大な夢を空想の鉄道として紹介していた。資料館のすぐ横には車庫もあり、往時の姿をそのままに保存された車両を見学することができた。保存されているのはTR101とTR202という車両で、TR101は車内に入ることもでき、当時の雰囲気を肌で感じることができた。TR202は動態保存用で、運転体験用として使用されているという。


第二章:神話の息吹、渓谷の絶景

高千穂峡へ移動し、旅のもう一つのハイライトであるボートに乗ろうとした。しかし、夏休み期間の土曜日の昼過ぎということもあり、残念ながら当日のボートはすでに売り切れ。私は気を取り直し、渓谷の遊歩道を歩いて散策することにした。気温はかなり高く、少し歩くだけで汗が噴き出す。それでも、深緑の木々が立ち並ぶ中、時折姿を見せる真名井の滝や五ヶ瀬川の清流は、目と耳から涼しさを届けてくれるようだった。
高千穂峡の代名詞ともいえる名瀑「真名井の滝」は、日本の滝百選にも選ばれている。その壮麗な景観の裏には、神話の物語が息づいている。天孫降臨の際、この地に水がなかったため、天村雲命が天より水種を移した「天真名井」の水が流れ落ちているという。この神話は、自然への畏敬の念から生まれたものであり、目の前の絶景が単なる風景ではなく、神聖な物語の結晶であることを理解させてくれる。
遊歩道の終点近くにある、休憩を兼ねて「高千穂峡淡水魚水族館」に立ち寄った。それほど広い施設ではないが、五ヶ瀬川水系に生息するヤマメやナマズ、ニジマスなど、身近な魚たちが展示されていた。さらに驚いたことに、ブラジルやアフリカの熱帯魚まで飼育されていた。施設の入口には、この水族館が玉垂の滝の清らかな湧水を利用していると書かれており、ここでもまた、神話の根源にある「水の力」を感じ取ることができた。


第三章:旅の味覚、土地の恵み

夕食は、ホテルのフロントで紹介してもらった「高千穂牛レストラン和」を訪れた。希少な「高千穂牛」は、宮崎県内で肥育された黒毛和牛で、2007年の「和牛オリンピック」で内閣総理大臣賞を受賞するなど、高い品質で知られている。特に、高千穂産の米粉を使った独自の飼料で肥育されているのが特徴だ。ロースステーキをレアでお願いすると、柔らかい肉質ときめ細やかな霜降り、そして口溶けの良い甘みが口の中に広がり、至福の時間だった。
高千穂牛の美味しさには、確固たる背景が存在する。高千穂牛は、地元で生まれた子牛を地元で肥育するという「地域内一貫体制」のもと、独自の濃厚飼料や良質な天然の山野草を与えられ、細心の注意を払って育てられている。その歴史は古く、明治時代から農耕牛の飼育が盛んであったこの地で、昭和に入ってから肉牛の肥育が始まったという。高千穂牛は単なるブランド牛ではなく、この土地の歴史と、生産者たちの地道な努力が結晶した、まさに土地の恵みそのものであった。


第四章:古から伝わる夜の儀式

夜、高千穂を訪れたからには、神話の原点に触れる夜神楽の鑑賞は欠かせない。高千穂神社では、夜を徹して三十三番が奉納される本来の神楽を、観光客向けに代表的な四番に絞って毎晩公開している。夜神楽は、秋の収穫に感謝し、翌年の豊穣を祈願する神事であり、国の重要無形民俗文化財にも指定されている。神楽殿に入ると、その厳かで神秘的な雰囲気に包まれ、私は「旅人も一夜氏子」という言葉が示すように、神聖な儀式の一部として迎え入れられる感覚を味わった。
上演された神楽は、日本建国神話の核心である「天岩戸隠れ」の物語を象徴的に再現するものであった。天照大神が岩戸に隠れたことで世界が闇に包まれ、それを憂えた八百万の神々が天安河原に集まり、大神を再び世に出すための相談をした。そして、天鈿女命が踊り、手力雄命が岩戸を開くという一連の流れが、舞として表現される。特にクライマックスの「戸取の舞」では、力強い手力雄命が岩戸を開き、再び世に光が戻る様子が描かれ、その迫力に圧倒された。
また、「御神体の舞」は、イザナギとイザナミの二神が酒造りを通して和合する様子を表現する舞だ。この舞には、五穀豊穣と家庭円満の願いが込められており、最も素朴で、神と人が一体となる古風を象徴している。純朴ながらもユーモアやストーリー性があり、観客と舞い手との一体感を感じる、この高千穂独自の精神性は、神楽が単なる鑑賞物ではなく、この土地の共同体の根幹をなす文化であることを物語っていた。


第五章:神話の原風景と棚田

翌朝、ホテルでしっかり朝食を食べて、天岩戸神社へ向かった。ここは、天照大神がお隠れになったとされる天岩戸をご神体として祀る神社だ。ここでは神職の案内で、川を挟んだ対岸にある遥拝殿から天岩戸を拝観することができる。ご神体に近づくことはできないが、厳かな雰囲気の中で悠久の神話に思いを馳せる貴重な体験だった。
天岩戸神社から徒歩で岩戸川をさかのぼると、大きな洞窟「天安河原」にたどり着く。ここは、天照大神が隠れた際に、八百万の神々が世界の光を取り戻すため相談した場所と伝えられている。洞窟の奥には天安河原宮が祀られており、祈願のために無数に積まれた石が幻想的な雰囲気を醸し出していた。川の水音と、積み上げられた石の静寂が織りなす空間は、まるで神話の世界に迷い込んだかのようだった。
天岩戸神社からの帰り道、トロッコの車窓から見えた栃又棚田に立ち寄った。丘の上に作られた展望施設まで登るのは少し骨が折れたが、そこから見渡す景色は、疲れを忘れさせてくれるに十分だった。眼下には、斜面に沿って何段にも広がる棚田と、それを囲むように流れる五ヶ瀬川の渓谷美が広がっていた。一枚一枚の田んぼが、昔の人の手によって丁寧に作られ、維持されてきたことを想像すると、これが日本の里山の原風景なのだと、深い感銘を受けた。棚田の曲線と、棚田が作り出す光と影のコントラストは、この地の人々の暮らしと自然が共生してきた歴史を静かに物語っていた。


第六章:旅の終焉、鉄道の記憶と共に

高千穂を後にする前に、廃線跡を巡る旅も楽しんだ。失われた鉄道の夢のすべてが消えたわけではない。五ヶ瀬川流域には、今もその歴史を静かに語りかける鉄道遺産が残っている。その代表的なものが、綱ノ瀬橋梁と第三五ヶ瀬川橋梁だ。
綱ノ瀬橋梁は、昭和12年(1937年)に竣工した鉄筋コンクリート造の43連アーチ橋で、当時日本最大のスパンを誇る鉄道橋として、日本のコンクリート技術の進歩を象徴する重要な土木遺産である。
第三五ヶ瀬川橋梁は、昭和14年(1939年)に竣工した、コンクリートと鋼トラスを組み合わせた複合構造の橋梁だ。安価なコンクリートを最大限に活用しようという当時の工夫が凝らされており、これもまた技術史的に重要な存在だと言える。
これらの橋は、台風で流失した第一・第二五ヶ瀬川橋梁とは異なり、今もその姿を留めている。第三五ヶ瀬川橋梁は現在遊歩道として再整備されており、私は実際にその上を歩いて渡ることができた。失われた鉄道の夢の象徴である旧高千穂駅と、それでもなお力強く残り続けるこれらの橋を眺めることは、未完の歴史が持つ重みと、そこに残された遺産が、深い感慨をもたらすことを教えてくれた。
帰りの飛行機までの時間、初日に通過したかわみなみPLATZに立ち寄った。ここは東九州自動車道のパーキングエリアに隣接し、一般道からもアクセスできるユニークな施設だ。ここで宮崎名物のチキン南蛮定食をいただくことにした。チキン南蛮は、戦国時代に来日したポルトガル人が伝えた「南蛮漬け」に鶏肉を用いたことが名前の由来とされている郷土料理だ。柔らかい鶏もも肉に甘酢とタルタルソースがたっぷりかかった定食は、旅の締めくくりにふさわしい満足感を与えてくれた。


旅で得たもの:物語を生きるということ

高千穂での一泊二日の旅は、単なる観光ではなかった。それは、古代の神話、近代の夢、そして大自然が織りなす多層的な物語を追体験する旅だった。高千穂の街全体が、神話の舞台装置であり、人々の営みがその物語に新たな章を書き加えてきた。
高千穂牛を味わい、夜神楽を観ることは、この土地の恵みと文化を五感で感じることだった。そして、鉄道の廃線跡を歩き、未完の夢に思いを馳せることは、挫折と再生の物語を心で理解することだった。高千穂は、過去が現在に、神話が現実につながっている場所であり、その物語を肌で感じることができた。
この旅は、私が日々生きる世界もまた、壮大な物語の一部であるという気づきを与えてくれた。過去の出来事が今の風景を形作り、今の営みが未来の物語を創っていく。高千穂は、その普遍的な真理を、壮大なスケールで、そして静かに教えてくれる場所だった。