夏の境界線:五十路、南九州を巡る旅


序章:空の色、旅の始まり

梅雨明けの見通しが立たない大阪の日常を乗せた伊丹発の早朝便が雲を抜けると、眼下に広がる空の色は、昨日までとは明らかに違っていた。九州南部もまだ梅雨の最中のはずだが、それを忘れさせるような深い藍色を湛えた空に、立体的で輪郭のはっきりとした純白の雲が浮かぶ。それは紛れもなく、夏の空だった。今年は梅雨入りが早かった分、明けも早いという予報を、この空が先取りしているかのようだ。

五十三歳になり、ふと立ち止まりたくなった。日々の喧騒から自らを切り離し、一人でどこか遠くへ。そうして選んだのが、南九州、鹿児島だった。鹿児島空港に降り立ち、予約していたレンタカーのキーを受け取る。エンジンをかけると、旅は完全に私一人のものとなった。カーナビに行き先を打ち込みながら、この鮮烈な夏空の下で始まる旅が、心を洗い、何か新しい輪郭を与えてくれるような予感を覚えていた。この旅は、計画された逃避であり、未知との出会いを求める静かな決意でもあった。

第一章:止まった鉄路、流れる時間

まずはじめに目指したのは、鹿児島ではなく、県境を越えた熊本県の山中だった。肥薩線、大畑(おこば)駅。そこは、私の記憶の中で特別な場所だったが、今はもう列車が来ないことを知っていた。山道を走り、ようやくたどり着いた駅は、想像以上に静寂に包まれていた。駅舎は昔の面影をとどめているが、ホームへと続く線路は赤錆び、信号機の灯は消えている。まるで5年前、あの豪雨の日から時間が止まってしまったかのようだ。

令和2年7月豪雨。ニュースで見た衝撃的な映像が脳裏をよぎる。人吉・球磨地方を襲ったそれは、観測史上1位の記録的な雨量を各地で更新し 、暴れ狂う球磨川は堤防を決壊させ、多くの橋を流し、街を呑み込んだ 。人吉市と球磨村だけで45名もの尊い命が奪われ、その多くが高齢者だったという事実に、自然の力の前に人間の営みがいかに脆いかを改めて思い知らされる 。肥薩線もまた、この豪雨で壊滅的な被害を受けた。路盤は流出し、鉄橋は見る影もなく崩落した 。八代と吉松を結ぶ区間は、今なお不通のままだ 。

しかし、その静寂は決して放置されたものではなかった。駅舎やホームは地元の有志「大畑駅を愛する友の会」によって丁寧に手入れされ、朽ち果てることなく、その姿を保っている 。私が訪れた日は、名物の水盤から水は出ていなかったが、それでも誰かが注ぎ続ける愛情の跡は、駅の隅々に感じられた。忘れ去られたのではなく、大切に守られているのだ。その健気さが胸を打つ。

次に訪れた人吉駅もまた、5年間列車を迎えていない。かつては、私も乗車したことのある観光特急「いさぶろう・しんぺい」や「SL人吉」で賑わったであろうホームは、がらんとしていた 。ここもまた、時が止まった場所だ。しかし、大畑駅で感じた静寂とは、少し質が違うように思えた。スマートフォンで調べてみると、この止まった鉄路の未来が、二つに分断されていることを知る。

人吉を含む「川線」区間は、県とJR九州が合意し、2033年度という遠い未来ながらも「鉄道での復旧」という光が見えている 。しかし、先ほど訪れた大畑駅を含む、日本三大車窓に数えられた絶景の「山線」区間は、その未来さえまだ描かれていない 。莫大な復旧費用と、過疎化という厳しい現実が横たわる 。

同じ「不通」という状態でありながら、一つは長い眠りの後の再生を約束され、もう一つは永遠の眠りにつくかもしれない。私が目の当たりにしているのは、単に止まった時間ではなく、非情な現実によって選別された、二つの異なる時間の停止だった。ボランティアの人々が駅を守る姿は、その不確かな未来に対する、切ない祈りのように思えた 。

第二章:千二百年の祈り、水禍を越えて

鉄路の静寂を背に、人吉の市街地にある青井阿蘇神社へ向かった。ここを訪れるのは十数年ぶりだ。蓮が浮かぶ池の向こうに、茅葺きの急勾配の屋根を持つ楼門が見える 。その姿は、先ほど見てきた近代のインフラの残骸とは対照的に、揺るぎない存在感を放っていた。

この神社の歴史は、平安時代初期の大同元年(806年)にまで遡る 。現在の社殿群は江戸時代初期、この地を700年にわたり治めた相良氏によって建立されたものだ 。黒漆を基調としながら、随所に施された極彩色の彫刻や飾金具。桃山文化の華やかさと豪壮さを今に伝えるその建築群(本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門)は、一連のものとして国宝に指定されている 。

そして、この千二百年の祈りの場もまた、あの令和2年の豪雨に見舞われたのだ。境内の電柱には、洪水が達した水位を示す印が残っていると聞く。私の背丈を遥かに超える高さだ。この壮麗な社殿も、泥水に浸かったのである。

しかし、神社はここにこうして建っている。豪雨は、近代技術の結晶である鉄道を寸断し、その復旧には経済合理性の厳しい判断が下される 。一方で、400年前の木造建築は、同じ災禍に耐え、今も人々の信仰の中心として息づいている。それはなぜだろうか。

おそらく、両者の価値の尺度が根本的に異なるからだ。鉄道の価値が乗客数や収益で測られるのに対し、この神社の価値は、悠久の歴史と、地域の人々の精神的な拠り所であり続けるという、数字では測れない部分にある。相良氏による700年の治世が文化財を守り育てたように、共同体の記憶と祈りが幾重にも積み重なった場所は、単なる機能や効率を超えた強さを持つのかもしれない 。災害は、私たちに何を失い、何を守るべきかを問いかけてくる。駅から神社への短い道のりは、その問いを辿る旅路でもあった。

第三章:水底の城、明治の面影

車をさらに南へ走らせ、鹿児島県伊佐市へ。目の前に現れたのは、幅210メートル、高さ12メートルという壮大なスケールを誇る曽木の滝だ 。 「東洋のナイアガラ」の異名は伊達ではなく、千畳岩の岩肌を削りながら流れ落ちる水は、凄まじい轟音とともに白い飛沫を上げていた 。

曽木の滝の轟音を背に、車で5分ほど移動する。目指すは、滝の下流に眠る旧曽木発電所の遺構だ。駐車場から木々に囲まれた遊歩道を10分ほど歩くと、視界が開け、そこには幻想的な光景が広がっていた。

明治42年(1909年)に竣工したこの煉瓦造りの建物は、かつて日本最大級の出力を誇る水力発電所として、日本の近代化を支えた 。しかし、昭和40年(1965年)に鶴田ダムが完成すると、その役目を終えて湖の底に沈んだ。

今、私の目の前にあるのは、渇水期である5月から9月の間だけ、その全貌を現すという「幻の城」である 。まるで古代遺跡か、物語に出てくる水底の城のようだ 。夏の強い日差しを浴びて、風化した赤煉瓦と、そこに絡みつく緑の草木が鮮やかなコントラストを描いている。私が訪れたこの日は、今年は梅雨入りが早かった影響か、この時期にしては水位が下がっており、建物が完全に姿を現していた。それは、計算されたかのような完璧なタイミングだった。

ここでもまた、私は「遺構」と向き合っていた。しかし、肥薩線のそれとは全く意味合いが違う。鉄道の廃線跡は、今なお解決すべき社会問題をはらむ「傷口」だ。一方で、この発電所跡は、その役割を終える運命が予め決まっていた。計画的な水没と、季節限定の再登場というサイクルは、産業遺産としての悲哀を、むしろロマンチックな物語へと昇華させている。ここは国登録有形文化財にも指定され、人々がそのノスタルジックな美しさを楽しむ観光地となっている 。

同じ「使われなくなったもの」でも、時間と文脈がいかにその意味を変容させるか。片や生々しい喪失の現場であり、片や美しく管理された追憶の対象。私たちは、朽ちていくものにさえ、無意識のうちに価値の序列をつけているのかもしれない。

第四章:昼餉の幸福論

午前中の旅は、災害の記憶や歴史の重みと向き合う、思索的な時間が続いた。頭と心が少し疲弊したのを感じ、昼食のために霧島市国分に立ち寄った。ここで出会った一皿が、旅の雰囲気をがらりと変えてくれた。

注文したのは、チキン南蛮。南九州のソウルフードだが、運ばれてきたそれは、私の知っているチキン南蛮とは少し違っていた。鶏肉を覆うタルタルソースが、尋常ではないほどの「たまご感」を放っているのだ。粗く刻まれたゆで卵が主役で、マヨネーズはつなぎに徹している。まるで、サンドイッチに挟まれているたまごサラダを、そのまま鶏肉にかけたような、贅沢でどこか懐かしい味わい。

一口食べると、ザクザクとした衣の食感、ジューシーな鶏肉、甘酢の爽やかな酸味、そして濃厚なたまごのコクが一体となって口の中に広がる。これは、うまい。午前中に巡らせた複雑な思索が、この単純明快な美味しさの前に、すっと消えていくようだった。

宮崎発祥の料理として知られるチキン南蛮だが、鹿児島でも深く愛され、店ごとに独自の進化を遂げているのだろう 。この「たまご感」満点のタルタルソースは、まさにこの店、この土地ならではの味。壮大な歴史や自然に触れることだけが旅ではない。名もなき食堂で、偶然出会った一皿に心から満たされる。そんなささやかで個人的な喜びにこそ、一人旅の醍醐味がある。この昼餉は、重くなった思考をリセットし、午後の旅へと向かう活力を与えてくれる、幸福な句読点となった。

第五章:鎮魂の翼、鹿屋にて

腹も心も満たされ、次に向かったのは鹿屋航空基地資料館。大隅半島に位置するこの地は、知覧と並ぶ、もう一つの特攻の記憶を宿す場所だ。特に海軍の特別攻撃隊の最大の出撃拠点であり、908名もの若者がここから飛び立った。真珠湾攻撃の作戦計画が練られた「鹿屋会談」の舞台でもあったという歴史の重みが、基地の空気に漂っている 。

館内に入ると、2階に展示された一機の戦闘機が目に飛び込んでくる。復元された零式艦上戦闘機五二型 。錦江湾と吹上浜の海底から引き揚げられた二つの残骸を一つに蘇らせた機体だという 。静かに佇むその姿は、美しくも哀しい。

しかし、私の足を長く止めさせたのは、その奥にある特攻隊員の展示室だった。壁一面に掲げられた、夥しい数の遺影。そのほとんどが、十代から二十代前半の若者たちの顔だ。十五歳の長女と十三歳の長男を持つ私にとって、彼らのあまりの若さが胸に突き刺さる。彼らが家族に宛てた遺書や手紙が、静かに展示されている。撮影が禁じられたその空間は、祈りのための聖域のようだった。

五十三年の人生を生きてきた自分が、二十歳そこそこの若者たちの「最後の言葉」と向き合う。そこには、国を憂い、家族を想う、純粋で痛切な言葉が並んでいた。彼らの短い生涯と、私の平凡だが長い人生。その圧倒的な隔たりを前に、言葉を失う。歴史の教科書で知る「特攻」という言葉が、一人ひとりの顔と名前を持つ、生身の人間の物語として胸に突き刺さる。

屋外には、世界に唯一現存するという巨大な二式大型飛行艇や、戦後の海上自衛隊で活躍した哨戒機などが並び、日本の空の役割が帝国海軍の攻撃から自衛隊の防衛へと変わっていった軌跡を示している。この資料館は、単なる過去の記録の展示場所ではない。今の平和が、いかに多くの犠牲の上に成り立っているかを、訪れる者一人ひとりの心に問いかける、鎮魂の翼が眠る場所だった。

第六章:神域のメタバース

歴史の重みに沈んだ心を抱えたまま、次に訪れた場所は、そのすべてを覆すような衝撃を与えてくれた。神徳稲荷神社。SNSで話題だという、ガラスの鳥居を持つ神社だ。

車を停め、参道へ向かうと、それは本当にあった。木や石でできた見慣れた鳥居ではなく、透明なガラスでできた鳥居が、夏の光を透過させて静かに立っている 。2018年に再建されたという新しい神社ならではの、大胆な試みだ。ガラスの向こうには、伝統的な朱色の千本鳥居が見える。最新の素材と古来の様式が融合したその光景は、どこか非現実的で、まさに「メタバース」という言葉がしっくりくる。仮想と現実が交差する、新しい時代の神域だ。

案内に従い、行きは緑の木々に覆われた参道を進み、帰りに千本鳥居をくぐるのが作法らしい 。本殿前の池にも小さなガラスの鳥居が設えられ、水との調和が美しい 。祭壇までもがガラス製だと聞き、その徹底したコンセプトに驚かされる。

この神社は、伝統をただ守るのではなく、現代の感性で再解釈し、積極的に発信している。それは、信仰が新しい世代と繋がり続けるための一つの答えなのかもしれない。その斬新さは、私の固くなった頭を柔らかくほぐしてくれるようだった。

第七章:岬の湯、明日への航跡

一日の旅程を終え、宿をとったダグリ岬の高台に建つ「国民宿舎 ボルベリアダグリ」へ。陽は傾き、空と海が茜色に染まり始めていた。部屋に荷物を置くと、すぐさま展望温泉へ向かう。湯船に体を沈めると、大きな窓の向こうに志布志湾の大パノラマが広がっていた 。 「美人の湯」とも言われるアルカリ泉は、肌に触れるとヌルっとした独特の感触があり、一日の旅で強張った体を芯から解きほぐしていくようだ。

その時、湾の向こうからゆっくりと進む大きな船影が見えた。大阪へ向かうフェリー「さんふらわあ」だ 。私が旅立ってきた日常へと帰る航跡が、夕暮れの海に白い線を引いていく。しかし、私はまだここにいる。旅の時間の只中にいる。その距離感が、心地よかった。

風呂上がりの夕食は、鱧鍋だった。夏が旬の鱧を、この鹿児島で味わう 。淡白ながらも深い旨味を持つ鱧を、昆布出汁にさっとくぐらせて口に運ぶ。一日の旅で火照った体に、その優しい味がじんわりと染み渡っていく。

空も、雲も、海の色も、まるで梅雨明けを宣言するかのように、すべてが夏のそれだった一日。様々な境界線を越え、多くのものを見て、感じて、考えた。この旅で明確な答えが見つかったわけではない。だが、それでいいのだ。五十路の一人旅とは、答えを探すのではなく、問いを拾い集めるための時間なのかもしれない。部屋の窓から、星が瞬き始めた夜の海を眺める。フェリーの灯りはもう見えない。明日は、まだ未定だ。その余白が、今は何よりも豊かに感じられた。

第八章:時の流れが生む滝の二面性

その未定だった二日目の朝は、寝坊から始まった。目覚ましをかけ忘れ、慌てて時計を見ると針は7時を指している。予定より1時間の遅刻だが、幸い朝食には間に合った。旅先の小さな失敗は、むしろ心を軽くする。

大隅半島を南下し、雄川の滝を目指す。しかし、山越えの道に入ると、空は昨日とは打って変わって牙を剥いた。ワイパーが追いつかないほどの豪雨が、フロントガラスを叩きつける。根占川北の集落から、車一台がやっと通れるほどの細道を7kmほど進むと、ようやく駐車場にたどり着いた。着く頃には雨は小雨に変わっていたが、ここから滝まではさらに1.2kmの遊歩道を歩かねばならない。駐車場の東屋で、しばし空模様を窺うことにした。

やがて雨脚が弱まったのを見計らい、歩き始める。遊歩道は多少のアップダウンこそあるものの、よく整備されていた。そして、目の前に現れた滝の姿に、私は息を呑んだ。ガイドブックで見た、エメラルドグリーンの滝壺へ幾筋もの白い糸が流れ落ちる「静的な過去のイメージ」とは、まったくの別物だった。昨夜からの雨と、上流のダムからの放水だろうか。滝は轟々と音を立て、猛々しく荒れ狂いながら豪快に白い水しぶきをまき散らしていた。それは、自然が持つ「動的な現在の力」をむき出しにした、大迫力の光景だった。この滝は、訪れる時の流れによって全く違う顔を見せるのだ。江戸時代後期の『三国名勝図会』にも描かれているというから、その神秘的な二面性は、過去から現在に至るまで、時間を超えて人々を惹きつけてきたに違いない。

滝に最も近い展望所でその力強い姿を眺めていると、再び雨が本降りに。またしても雨宿りを余儀なくされた。雨は強弱を繰り返しながら30分ほど続いただろうか。不意に雲の切れ間から光が差し、空が明るくなり始めた。この機を逃すまいと、急いで駐車場へと引き返した。

第九章:最南端で交差する時間

滝を出発したのは、もう12時を過ぎていた。次の目的地、本州最南端の佐多岬へ向かう道すがら、昼食をとれる場所を探す。しかし、道沿いには大きな集落もなく、空腹だけが募っていく。そんな中、「うなぎ料理」の看板が目に留まった。渡りに船とばかりに店に入ると、客の姿はなく、静まり返っている。「ごめんください」と声をかけると、奥からかなり年配の大女将がゆっくりと姿を現した。食事をしたい旨を伝えると、申し訳なさそうに「もう昼の営業は終わったんですよ」と言う。時計はまだ12時45分を指していたが、ここでは都市の慌ただしい時間とは違う、ゆったりとした過去からの時間が流れているらしい。結局、昼食は食べ損ねてしまった。

空腹を抱えたまま、大隅半島の南岸を走る県道から、佐多岬へと続く道へ入る。この道もまた、7.5kmにわたってアップダウンが続く険しい山道だった。佐多岬は、決して気軽に行ける場所ではないのだと痛感する。ようやく着いた駐車場から、さらにトンネルを抜け、遊歩道を20分近く歩く。朝の大雨が嘘のように空は晴れ渡り、雨上がりの湿気と強い日差しで、ひどく蒸し暑い。坂道を上り下りするうちに、シャツは汗でぐっしょりと濡れた。

しかし、息を切らして辿り着いた展望台からの眺めは、そこに至るまでの「現在」の苦労をすべて吹き飛ばすほどの絶景だった。西に東に、そしてどこまでも広がる南の海。遮るもののない大パノラマは、個人のちっぽけな時間感覚を超越した、普遍的な価値を宿している。しばらく海風に吹かれて火照りを冷まし、この雄大な景色を目に焼き付けた。

第十章:生きている駅、眠っている駅

時刻はすでに14時を回っている。ここから鹿児島空港までは150km以上。もうゆっくりはしていられない。空港へ向かう途中、この旅のテーマを締めくくるために、どうしても見ておきたい場所が一つだけあった。空港から車で10分ほどの距離にある、嘉例川(かれいがわ)駅だ。

明治36年開業当時の姿をとどめる木造駅舎は、現存するものとしては県内最古であり、全国でも最古級の貴重なものだ。静かな集落の中に、駅はひっそりと、しかし確かに息づいてたたずんでいた。昨日訪れた大畑駅との違いは、あまりにも鮮烈だった。同じ肥薩線という一本の歴史を共有しながら、大畑駅は災害という過去の出来事によって未来への時間を止められ、人の手で守られながらも静かに眠る駅だった。対照的に、この嘉例川駅は、豪雨の被害を免れ、今も日に23本の列車がやってくる。駅前には乗合バスも停まる。120年以上の過去を背負いながら、人々の生活と共に現在を刻み、未来へと続く「生きている駅」なのだ。同じ線路で繋がっていたはずの二つの駅が辿る、あまりにも異なる時間の運命。その対比が、私の胸に深く突き刺さった。

終章:境界線を越えて

ガソリンを満タンにし、二日間を共にしたレンタカーを返す。手荷物検査を終え、再び機上の人となった。

窓の外に、自分が旅してきた土地が小さくなっていくのを眺めながら、この濃密な二日間を反芻する。この旅は、いくつもの「時間」の境界線を越え、その両側にある価値を目の当たりにする旅だったのかもしれない。

災害によって未来への時を止められ、静かに眠る駅と、120年の歴史を刻みながら今も走り続ける駅。千二百年の祈りを受け継ぐ国宝と、役割を終え水底で物語となった明治の遺構。若き魂の記憶を鎮める翼と、ガラスの鳥居で未来へと進化する神域。そして、訪れる時によって静と動、二つの顔を見せる滝。この旅で出会った風景は、常に異なる時間の層と価値観の対比を私に突きつけてきた。廃線の寂寥、千年の祈りの重み、水底の夢の跡、ささやかな昼餉の喜び、若き魂への鎮魂、そして未来的な神域の驚き。それら全てが、五十三歳の心に深く刻まれていく。

人生の折り返しはとうに過ぎた。15歳の長女と13歳の長男は、これからどんな人生の境界線を越えていくのだろうか。そんなことをふと思う。

明確な答えなど、何一つ見つからなかった。しかし、それでいい。この旅で拾い集めた数々の問いが、これからの日常を少しだけ違う色に見せてくれるような気がした。飛行機は高度を上げ、大阪へと向かう。窓の外には、また昨日までと同じ、見慣れた空が広がっていた。