北へ、最果てへ:記憶の線路を辿る2003年夏の旅


プロローグ:遠きレールの響き(2025年の視点から)

2025年8月、書斎の引き出しの奥から、一枚の色褪せた切符が出てきた。2003年夏の日付が押された「青春18きっぷ」。その5つのスタンプ欄は、すべて旅の記憶を刻んだ駅名で埋め尽くされている。この小さな紙片が、22年前の壮大な旅の記憶を呼び覚ます。熊本での単身赴任中、無性に日本の鉄道網の四肢を確かめたくなった、あの夏の冒険の記憶だ。

今となっては、あの旅は二度と再現できない。この22年間で日本の鉄道地図は劇的に塗り替えられた。新幹線網は列島を再編し、かつての「最果て」の称号を持つ駅は新たな駅にその座を譲り、古い路線は姿を消すか、第三セクターへと移管された。私がこれから語るのは、失われた鉄道の世界への巡礼であり、アナログな旅がまだ息づいていた時代への頌歌である。

計画は壮大だった。飛行機や特急を極力使わず、「青春18きっぷ」を主体として、当時日本最南端の駅であった西大山から最西端を経由し、最北端の稚内までを鉄道だけで踏破する。乗り換え回数は膨大で、地方の末端区間では列車の本数が極端に少ないため、このような旅は分厚い時刻表を隅々まで読み解く、緻密な事前計画がすべてを左右する。当初は最東端の東根室も旅程に含めていたが、それでは夏季休暇の期間を2日もオーバーしてしまうことが判明した。そのため、最東端訪問は断念せざるを得なかった。それはこの無謀な計画に現実味を与えるための、計算された妥協だったのだ。

第1章 南の始発駅 – 新幹線以前の世界

玉名からの序章

5泊6日に及ぶ旅の始まりは、単身赴任先である熊本県の玉名駅からだった。初日は青春18きっぷを使わず、別に乗車券を用意して南を目指した。指宿枕崎線の終点、枕崎にたどり着いた時、私を迎えてくれたのは、JRの駅とは思えない、三角形の屋根が印象的な趣のある駅舎だった。それもそのはず、この駅舎はJRのものではなく、かつてこの地から伸びていた鹿児島交通枕崎線の時代のものを引き継いでいたのだ。鉄道の歴史が刻み込まれたその佇まいを目に焼き付け、この予備走行が心を日常から非日常へと切り替える重要な儀式であることを実感した。

2003年8月、西大山駅にて

指宿枕崎線の終点である枕崎まで乗り通した後、折り返しの列車で西大山駅のホームに降り立った。目の前に広がるのは、2025年の整備された観光地としての姿ではない。ただ畑が広がり、簡素な駅名標とホームがあるだけの、静かで飾り気のない無人駅だった。しかし、その簡素さゆえに、薩摩富士と称される開聞岳の優美な稜線が、遮るものなく目に飛び込んでくる。幸せを呼ぶ黄色いポストなど、後の観光名物となるものはまだ影も形もない。

ホームに立つ一本の標柱。そこには、まだ「JR」の小さな文字が書き加えられる前の、「日本最南端の駅」という誇らしげな言葉だけが刻まれていた。この旅をこの時期に決行したのには、理由があった。数日後の2003年8月10日、沖縄に「ゆいレール」が開業し、赤嶺駅が新たな最南端となることが決まっていたからだ。私は、この駅が正真正銘、名実ともに日本の鉄道網の南の果てであった最後の瞬間を、この目に焼き付けるために訪れたのだ。

西大山駅は1960年の開業以来、長らくこの称号を保持してきた。ホームには、私と同じようにこの歴史的な瞬間を共有しようと集まったのであろう、鉄道ファンと思しき人たちが数名、思い思いにカメラを構えていた。それは決して寂しい風景ではなく、一つの時代の終わりを静かに見届ける者たちの、独特な熱気に満ちた空間だった。

川内での一夜

西大山駅での感慨に浸った後、再び列車に乗り、その日の宿をとる川内へと向かった。九州新幹線の開業を翌年に控え、まさに変革前夜の、どこか雑然とした活気があった街の宿で、長い旅の初日を終えた。

第2章 西の極点と二つの夜行列車

失われた幹線を北へ

旅の二日目、ここから青春18きっぷの旅が始まる。川内から鹿児島本線をひたすら北上する。このルートこそ、この旅が過去のものであることを最も雄弁に物語る。2004年の九州新幹線部分開業に伴い、八代~川内間は第三セクター「肥薩おれんじ鉄道」に移管され、JR線としての連続性は失われた。私が乗車したローカル列車が走ったあの線路は、もはや青春18きっぷ一枚では通り抜けられない「幻のルート」となってしまったのだ。

西の極点へ – もうひとつの失われゆく称号

鳥栖を経由し、佐世保から松浦鉄道のレールへと足を踏み入れた。目指すは、伊万里へ向かう途中にある、たびら平戸口駅。当時、沖縄の鉄道が存在しなかったため、この駅こそが日本本土における最西端の駅だった。

そして、ここでも私は歴史の転換点に立っていた。この旅の起点である西大山駅が、数日後に開業する沖縄のゆいレールによって「日本最南端」の座を譲るように、このたびら平戸口駅もまた、「日本最西端」の称号を那覇空港駅に明け渡す運命にあったのだ。奇しくもこの旅は、二つの「日本最〇端」の称号が、本土から沖縄へと移る最後の瞬間を巡る旅となった。

夜行列車リレーという妙案

たびら平戸口から伊万里、唐津を経由し、筑肥線で博多へ。ここからが、この旅の真骨頂ともいえる夜行列車のリレーの始まりだった。博多から乗り込んだのは、今はなき夜行快速「ムーンライト九州」。京都までの長い夜を、列車の揺れに身を任せて過ごす。

翌朝、三日目の朝日を浴びながら京都駅に降り立ち、東海道本線を乗り継いで東京へ。ここで、この旅のルートを決定づけた制約が、計画の妙へと昇華する。前年の東北新幹線八戸延伸により、太平洋側の東北本線は第三セクター化され、青春18きっぷでの通り抜けが不可能になっていたのだ。このため、北へ向かうには日本海側ルートを辿るしか選択肢はなかった。しかし、この制約こそが、夜行快速「ムーンライトえちご」の利用を可能にした。新宿を深夜に出発するこの列車は、夜間の移動によって丸一日分の時間を稼ぎ出す、まさに魔法の絨毯だった。結果として、二夜連続で夜行列車の旅情を味わうという、今となっては贅沢極まりない体験が生まれたのだ。

その夜、新宿から乗り込んだ「ムーンライトえちご」は、165系電車。車内にはグリーン車の廃車発生品を再利用したという、ふかふかのリクライニングシートが並んでいた。二晩連続の車中泊の疲れを、その快適な座席が優しく癒してくれた。

第3章 日本海縦断と本州の終着点へ

北へ向かう鉄路

四日目の朝、夜行列車は新潟県の新津に到着した。ここからは、ひたすら日本海に沿って北を目指す。羽越本線、そして奥羽本線へと乗り継いでいく。車窓に広がるのは、時に穏やかで、時に荒々しい日本海の風景と、広大な庄内平野の田園風景だ。淡々と、しかし着実に北へ向かっていることを実感させる、骨太な鉄道旅が続いた。

津軽海峡を前にして

列車を乗り継ぎ、本州の北の果て、津軽線の蟹田駅に到着したのは、空にまだ茜色が残る、日の落ちた頃だった。ここから北海道へ渡るには、この旅唯一の例外的な乗り換えが待っている。当時、青函トンネルを挟む蟹田~木古内間には普通列車が運行されておらず、青春18きっぷの旅人は特例として、特急「スーパー白鳥」の普通車自由席に乗車することが認められていたのだ。この特別なルールを前提に、乗り換えには1時間18分という待ち時間を計画に組み込んでいた。

駅舎の待合室で、ザックから取り出した文庫本を開く。スマートフォンで無限に時間を潰せる現代とは違う。ページを一枚一枚めくるごとに、物語の世界に没入し、現実の待ち時間を忘れさせてくれる。この旅のために厳選した10冊の文庫本は、単なる暇つぶしではなく、旅の孤独を癒し、思索を深めるための、かけがえのない相棒だった。

やがて、待ち時間の終わりに特急「スーパー白鳥」が入線してきた。滑るように加速する789系電車は、海底深くのトンネルへと吸い込まれていく。

函館での夜

木古内で普通列車に乗り換え、その夜の宿がある函館に到着したのは、すっかり夜も更けた時間だった。長い四日目の行程を終え、北の大地の夜に身を沈めた。

第4章 北の大地へ – 宗谷本線を北へ

北海道の広大さの中へ

五日目の朝、函館を出発。函館本線の、通称「山線」と呼ばれる風光明媚なルートを通り、札幌を経由して旭川へ。そこからさらに宗谷本線に乗り継ぎ、ひたすら北を目指す。車窓のスケールは本州とは比較にならないほど雄大になり、どこまでも続く直線路と広大な平野が、北海道に来たことを実感させた。札幌駅で手に入れておいた駅弁を味わいながら、北へ向かう列車の単調なリズムに身を任せた。

宗谷本線のダイヤを読み解く

旅の最終盤、最も時刻表の読解力が求められる区間が待ち受けていた。名寄以北の宗谷本線は、普通列車の本数が極端に少ない。その日のうちに稚内へ到達するのは不可能であり、途中で一泊する必要があることは、旅立つ前から明らかだった。

音威子府での一夜

その戦略的宿泊地として選んだのが、小さな村、音威子府(おといねっぷ)だった。かつては天北線が分岐した鉄道の要衝であり、黒い蕎麦で知られるこの村に降り立つと、深い静寂が支配していた。奇しくもこの2003年には、村内の旧筬島小学校を利用した「エコミュージアムおさしまセンター」がオープンしており、計画された滞在が、この地域の文化に触れる小さなきっかけとなった。

第5章 稚内 – 終わりと始まり

最果てへのラストスパート

六日目の朝、最終行程が始まった。乗車したのは、北海道の厳しい自然環境に対応するために設計された、頑丈なキハ40形気動車だ。車窓風景はますます原野の様相を呈し、人家もまばらになっていく。孤独と、この国の広大さを噛みしめながら、列車は日本の鉄道網の北の終着点へ向けて、最後の力走を続けていた。

北の終着点にて

長い長い旅の末、列車はついに稚内駅のホームに滑り込んだ。私を待っていたのは、今ある複合施設「キタカラ」ではなく、昭和40年から旅人を迎え続けた、国鉄時代からのコンクリート駅舎だった。島式ホーム1面2線にはまだ活気があり、樺太への連絡口であった歴史を感じさせる、最果てのターミナルとしての風格が漂っていた。深い達成感と、それと同じくらいの肉体的、精神的な疲労感が全身を包んでいた。ホームに降り立ち、簡素ながらも重みのある「日本最北端の駅」の碑を目にした時、西大山のホームで見た開聞岳の姿が脳裏に蘇った。南の端から北の端まで、この国の背骨をレールの上で辿りきったのだ。

旅の締めくくり

何日にもわたる鈍行列車の旅は、ロマンであると同時に、過酷な試練でもあった。硬い座席に揺られ続けた体は、正直に悲鳴を上げていた。しかし、せっかく最果ての地まで来たのだからと最後の力を振り絞り、旅の最後に、バスでノシャップ岬へと向かい、近くにあるノシャップ寒流水族館に立ち寄った。北の海の厳しい環境で生きる生物たちの姿にしばし見入った後、遥かな道のりに思いを馳せ、私の旅は完結した。

エピローグ:時の線路(2025年の最後の視点から)

書斎で22年前の切符を眺めながら、あの旅がなぜ二度と再現不可能なのかを改めて思う。この旅では時間の都合で訪れることができなかったが、最東端の駅もまた、その称号を譲り渡している。当時、日本最東端だった根室本線の東根室駅は、2025年3月に廃止された。これにより、根室駅がその座を引き継いだのだ。南は西大山から赤嶺へ、西はたびら平戸口から那覇空港へ、そして東は東根室から根室へ。日本の四つの最果てのうち、実に4分の3がこの22年で入れ替わってしまったのだ。変わらないのは、北の終着点、稚内だけである。

そして、変化は最果ての称号を持つ駅だけに留まらない。この旅の出発点と終着点そのものも、もはや同じ場所にはないのだ。旅の始まりを告げた枕崎の趣ある鹿児島交通時代の駅舎は解体され、駅自体が100メートル移転した。そして、旅の終わりを告げた稚内のコンクリート駅舎もまた姿を消し、駅の位置も南へずれ、巨大な複合施設の一部へと生まれ変わった。まさに、始点も終点も、記憶の中にしか存在しない旅となってしまったのである。

これほど多くのものが失われ、再現不可能となった旅だからこそ、その価値は、単なる移動の記憶以上のものとして心に刻まれている。そして、その価値をさらに深いものにしていたのは、スマートフォンアプリが最適な乗り継ぎを瞬時に提示し、新幹線が時間を圧倒的に短縮してくれる現代とは対照的な、あの旅独特の体験にもあったのではないか。分厚い時刻表と格闘し、接続の妙を見つけ出し、土地のダイヤに自らを合わせていく。そうした知的な挑戦こそが、旅を単なる移動から忘れがたい体験へと昇華させていた。それは、日本という国を高速で「飛び越える」のではなく、その土地の起伏やリズムを感じながら、自らの意志で「縦断する」旅だった。

5つのスタンプで埋まった2003年の切符は、もはや失われた鉄道の世界と、若き日の自分自身とを繋ぐ、唯一の物的証拠として、静かにそこに在り続ける。

22年間の旅:主要な鉄道の変化(2003年 vs. 2025年)
特徴2003年の状況(体験当時)2025年の状況(現在の現実)
日本最南端の駅西大山駅 (JR)赤嶺駅 (沖縄ゆいレール)
日本最西端の駅たびら平戸口駅 (松浦鉄道)那覇空港駅 (沖縄ゆいレール)
日本最東端の駅東根室駅 (JR根室本線)根室駅 (JR根室本線)
九州縦断の主要在来線ルート鹿児島本線(西鹿児島経由)九州新幹線 / 肥薩おれんじ鉄道
本州 ⇔ 北海道 在来線アクセス津軽海峡線(特急「スーパー白鳥」)北海道新幹線
夜行快速列車(ムーンライト九州・えちご)運行中(青春18きっぷで利用可能)全廃
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